豊島区立駒込図書館/さくらデジタルコレクション

 数多い桜の品種の中でも、日本人にとって最も知名度が高く、全国に分布する桜のうち約80%を占めるとされるソメイヨシノ。
 豊島区のかつての染井地域は「ソメイヨシノ発祥の地」とされており、その発祥にまつわる歴史的経緯から最近の研究の報告まで、豊島区学芸員の視点からご紹介します。

※このコーナーは豊島区立郷土資料館 学芸員 秋山伸一氏の監修のもと、2016年11月5日(土)に開催された豊島ミュージアム講座 第3回 ソメイヨシノ研究最前線(於南大塚地域文化創造館)の資料を、インターネット公開用に編集・作成いたしました。

※掲載の図版はすべて権利者の許諾を得て掲載しています。

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①「江戸一目図屏風(えどひとめずびょうぶ)」で江戸の町を眺める

「江戸一目図屏風」(津山博物館所蔵)

鍬形蕙斎(くわがた・けいさい)画「江戸一目図屏風(えどひとめずびょうぶ)」
文化6(1809)年成立 津山郷土博物館所蔵  岡山県指定重要文化財

 隅田川東岸上空から西方向を見下ろす形(東京スカイツリーの展望台から眺めるイメージ)で江戸の町を描いた六曲一隻(ろっきょくいっせき)の屏風絵。かなりの起伏があり、また緑が豊かだった様子がうかがえる。

江戸一目図屏風をさらに詳細に見る場合はこちらへ
(津山郷土博物館/「江戸一目図屏風」等)

赤色部分拡大図

②外国人が見た江戸

『幕末日本探訪記』
ロバート・フォーチュン著,三宅馨訳
講談社学術文庫,1997年12月刊

 イギリスの植物学者ロバート・フォーチュン(万延元年=1861年に来日)がみた同年11月の愛宕山(現港区、25.7mの標高があり見晴らしが良いことで知られていた)からの景色について次のような記述がある。
 「われわれが今来た、樹木の茂る品川の郊外一帯の西南の方を振返って、次第にゆっくり目を南に向けると、東の方に三日月か半月形をした湾の海岸沿いに、幾マイルも伸びている江戸の美しい町並が見えた。
(中略)東から北の方へ眼を向けると、家並や寺や庭で埋まった広大な低地〔訳者注-下町(以下同様)〕が一面、はるか向うの水平線までつづいているように思われた。
四、五ケ所に木造の橋が架かっていた大川〔隅田川〕は、その辺の町を貫流して、江戸湾に注ぐ。
(中略)広漠たる市街を越して西方に眼を移すと、その背後に一連の雑木山があり、その傾斜地は家や寺や樹木でおおわれていた。」
 【ロバート・フォーチュン著、三宅馨訳『江戸と北京』(廣川書店、1969年)79~80頁】

③江戸の緑地は創られたもの?

「東京名所四十八景飛鳥やま」昇斎一景画
(豊島区立郷土資料館提供)

 明暦3(1657)年に発生した明暦の大火後、江戸の都市整備が進んだ。(延焼防止のための道幅拡幅や広小路の設定、市街地の拡大、両国橋の架橋、大名への下屋敷の下賜など)
 その結果として、武家屋敷の庭園整備、寺社の名所化、政策による花名所の創出(例えば吉宗による花見場所の設置)などにより、江戸の緑地が整備され豊かになり、先にみた「江戸一目図屏風」のような景観になっていく。
 そのような中、江戸の名所に展開する緑地を長きにわたって保持していくためには、日常的な維持・管理作業が求められたが、この役割を担ったのが江戸および江戸近隣に居住していた植木屋たちである。

★江戸の町の場合は、幕初→幕末に向けて緑地面積が徐々に増え、より整備されていく傾向にある。“時間の経過とともに自然(緑地)は失われていくものだ”という現代風の先入観を取り去る必要があろう。

④江戸時代~明治時代の植木屋とは?現在、最もイメージしやすいのは、植物園の空間や造園業者の広大な敷地

19世紀後半、開園当初の浅草
「花屋敷(はなやしき)」
(株式会社花やしき提供)

 当時の植木屋は、広い敷地に四季折々の植木や鉢植えを並べ、見物客が自由に見学し、気に入ったものを入手できるものだった。春にはツツジ・サツキをはじめとする植木や草花類、秋にはキク・カエデをはじめとする植木や草花類を展示・販売しており、いずれの植木屋も、江戸の中心から半日ないしは1日で往復できる江戸近隣の名所(観光地)であった。
 A.敷地内での公開を前提とした植物の維持・管理
 B.植木屋としての植物の販売・営業
 C.近隣の武家屋敷等の庭園管理
といった仕事を担っていたことになる。

★もちろん植木屋の規模等(植木屋の専門性、階層の存在等)によって、上記 ABCそれぞれを単独で担う植木屋もいたであろう。

⑤江戸時代に描かれた染井の植木屋

嘉永3(1850)年~慶応3(1867)にかけて刊行された
『絵本江戸土産』(歌川広重画)に描かれる
染井の植木屋
(豊島区立郷土資料館提供)

 当時の染井の植木屋は、現在の植物園に最も近いものと言える。

「江戸名勝図会 染井」(歌川広重画)
にみる染井の植木屋
(豊島区立郷土資料館提供)


⑥明治時代前期の植木屋分布からわかること

明治10年代における東京中心部の植木屋分布
※図中の数字は軒数ではなく地域数

公益財団法人東京都公園協会編
『徳川三代将軍から大名・庶民まで、花開く江戸の園芸文化-その保全と継承-』
〈平成23年度第2回企画展神代植物公園開園50周年特別展図録〉2011年,17頁所収より転載

 明治10年代でも東京の中心部には多くの植木屋が分布している。
 江戸時代には参勤交代の制度があったため、江戸とその周縁部には多くの武家屋敷があったと考えられるが、武家屋敷の敷地内は庭園部分が多く、日常的に庭園を維持・管理する植木屋が必要であった。
 そのため、江戸の町全体に植木屋が存在することは必然であり、なかでも岩槻街道(現本郷通り)沿いは突出して多かった。
 明治維新期に大名らは国元に帰ったので、武家屋敷の庭園の多くは植木屋の管理の手から離れた。それでも、相当数の植木屋(1886年「東京有名植木師一覧」には286人の植木屋が書き上げられている)が明治10年代まで残っていたわけである。
 それでは、かつて江戸市中に居た植木屋の総数はいったいどのくらいだったのだろう。江戸園芸の全体像の解明には、多くの地域での事例検証が必要である。
①現在の地図にみる染井の植木屋位置図(黄色部分)

(豊島区立郷土資料館提供)


②「江戸切絵図」(染井・王子・巣鴨辺絵図)にみる染井の植木屋の位置
「此辺染井村 植木屋多シ」との記述がある

染井王子巣鴨邊繪圖

[この周辺を江戸切絵図で詳細に見る]

③プラントハンターの位置

イギリスの植物学者 ロバート・フォーチュン

『プラントハンター―ヨーロッパの植物熱と日本』
白幡洋三郎
講談社選書メチエ,1994年2月刊

幕末の開港期には欧米諸国からの外交官とともに植物学者(プラントハンター)が多く来日する(どうして日本に来るのか??)。
 椎野昌宏「園芸文化交流と外国人プラントハンター 第1回」に次のような記述がある。
 「日本はモンスーン気候帯(夏は高温・多雨、冬は低温・乾燥)に位置し、気候の変化(四季)が顕著なため、動植物類は多彩であった。イギリスと比較して植物の種類は2.2倍、哺乳類は2.2倍、鳥類は2.4倍生息しているとされる。環境庁の調査では、シダ以上の高等植物は日本に5600種、イギリスに2500種自生するとされている。」
 鳴く虫を例にとると、イギリスには2~3種類程度しかいないが、日本ではキリギリス、スズ虫、コオロギ、クツワ虫などの名前を子どもでも挙げることができる。

★地球の氷河期に日本では多くの動植物は生き残ったのに対し、ヨーロッパでは殆どが死滅したとされ、その影響が今に残るとする。

 また、椎野昌宏「園芸文化交流と外国人プラントハンター 第3回」には、「しかも彼らは残された自然も文明の発展によって破壊しつくしたため、今残されている自然は人工林が多く、原生林などは全くないという。そこで中国・日本・オセアニアをはじめ、地球上の全地域から異国の植物を集めるプラントハンティングの時代に突入した。」との記載がある。
 欧米の植物学者(商人)にとって、当時の日本(もちろん、より魅力的なのは中国)は植物の宝庫であり、栽培技術も高く、イギリスの植物学者ロバート・フォーチュンが染井の植木屋集住地帯を訪れた際に驚嘆したことがこのことを象徴している。

★幕末から明治時代にかけて、海外との貿易制度が整えられることにより、プラントハンターの役割はひとまず終わりを告げる。

④ロバート・フォーチュンによる染井の植木屋に関する記述

『幕末日本探訪記』
ロバート・フォーチュン著,三宅馨訳
講談社学術文庫,1997年12月刊

 1861(万延元)年10月に初めての来日を果たしたフォーチュンは、翌11月に染井地域を訪れ、多くの植物を買い付けている。以下は染井地域の景観に関するフォーチュン自身の記述である。
 「交互に樹々や庭、恰好よく刈り込んだ生垣が続いている。公園のような景色に来たとき、随行の役人が染井村にやっと着いた、と報せた。そこの村全体が多くの苗樹園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が一マイル以上も続いている。私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売物の植物を栽培しているのを見たことがない。植木屋はそれぞれ、三、四エーカー(おおよそ3600~4500坪)の地域を占め、鉢植えや露地植えのいずれも、数千の植物がよく管理されている。どの植木屋も大同小異なので、その一つを記述すれば、全体のたくみな趣向がわかるだろう。」

 【ロバート・フォーチュン著、三宅馨訳『江戸と北京』(廣川書店、1969年)109頁】

⑤染井の植木屋伊藤伊兵衛家について

「藤堂和泉守殿染井下屋敷図」
狩野春川画,文政元年(1818)
(東京国立博物館提供)
[詳しく見る]

 もともとは藤堂家の江戸下屋敷に出入りする農民だった伊藤伊兵衛家は、なぜのちに「江戸第一の植木屋」と言われるまでになったのか?
 ・藤堂家の屋敷で不要となった植物を持ち帰り、自宅で栽培しているうちに植木屋になったという(『東都紀行』の記述による)。

 ・伊兵衛は、身分的には上駒込村染井に居住する農民のため、自分が所持する耕地(畑)には年貢がかかる。
 ただし、畑の年貢は現物納ではなく金銭納だったため、一般に農民たちは換金率の高い商品作物を植え付けた。伊兵衛の場合、それが植物栽培であり、しかも経営がうまくいったのではないか。

 染井地域の伊藤姓を名乗る家は、多くが伊兵衛家の分家筋と考えられるが、商品作物として植物栽培を行いそれが軌道に乗ったためそれぞれが植木屋を経営し繁栄していったものと思われる。

⑥享和三(一八〇三)年板行『絵本江戸桜』(北尾政美画・十返舎一九序)に描かれる植木屋伊藤伊兵衛の庭

『絵本江戸桜』染井之植木屋
蔦屋重三郎,寛政年間
(国立国会図書館デジタルコレクション)

染井之植木屋
 花屋の伊兵衛といふ、つゝじを植しおびただし、花のころハ貴賎群集す、其外千草万木かずをつくすとなし、江都第一の植木屋なり、上々方の御庭木・鉢植など、大かた此ところよりさゝぐること毎日毎日なり

[伊藤伊兵衛の庭を詳しく見る]

⑦伊兵衛家の衰退と染井の植木屋

『草木奇品家雅見』 3巻. [3]
金太 撰輯,文政10年[1827]
「拝領とうかえで」写生画部分
(国立国会図書館デジタルコレクション)

伊藤伊兵衛家は江戸時代後半期に徐々に衰退していくという。
 江戸園芸の大きな流れとして、江戸時代前半は武家(屋敷)や寺社(庭園)を中心にした植木(地植え)園芸が盛ん、一方江戸時代後半になると、庶民を含めた鉢植え園芸へと転換していく傾向が読み取れる(斑入りの植物を珍重する奇品〈きひん〉の流行など)。
 代々伊藤伊兵衛家は、ツツジ、サツキ、カエデといった植木園芸を得意としており、上記のような江戸園芸の流れにうまく対応できず、徐々に衰退していったのではないか。

 柳沢信鴻(大和郡山藩第2代藩主=柳沢吉保の孫)による『宴遊日記』安永4(1775)年1月11日条には下記のように書かれている。
 「伊兵衛庭を廻り見る、庭中木葉埋み、去々年より又々零落」


★その一方で、染井の植木屋全体としては、お互いを敵対視するのではなく、ひとつのチームとして団結・協力しながら繁栄していく。

⑧『草木奇品家雅見(そうもくきひんかがみ)』に描かれる駒込・巣鴨の植木屋による奇品

『草木奇品家雅見』 3巻. [3]
金太 撰輯,文政10年[1827]
「庄之助ひば<染井庄之助>」(右)と
「小右衛門とう茶<染井小右衛門>」(左)
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 奇品(葉に斑が入ったりした形状が特異な草木のこと)のなかでも特に珍しいものにはひと鉢数百両もの値がつき取引された。そのため、盗品として奇品が狙われ、実際に盗まれた事例も確認できる。

『草木奇品家雅見』 3巻. [3]
金太 撰輯,文政10年[1827]
「五三朗つヾれ<染井五三郎>」(右)と
「源右衛門ほうわう竹<染井源右衛門>」(左)
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 
①見立番付「草木花角力(そうもくはなずもう)」

「草木花角力」,江戸時代
(東京都江戸東京博物館HPより転載)

見立番付(みたてばんづけ)…相撲の番付にならい、様々な事物に序列をつけた一覧表。江戸時代から明治時代にかけて一枚摺りの読み物として売られ、庶民の間で流行した。
◎前提として、一八世紀後半には、庶民を含め春に桜花を楽しむことが定着していたことが、先行研究から明らかになっている。

②東京の桜ソメイヨシノから全国のソメイヨシノへ
 明治44年刊『東京年中行事』によると次のような記述が見られる。
「東京の桜は俗に吉野桜と言えども、吉野の山桜とは何の関係もない。学者はこれに染井吉野と言う名前を付けている。
もと江戸時代に於て、巣鴨の近所の染井の植木屋が、人工を以て作り出したもので、古来吉野の桜が天下一品と称せられていた処から、この名を利用して売り出した処が、それが東京付近の地味に適って盛んな繁殖を見るに至った。
東京の桜を俗に吉野桜と言う説は真に近い。兎に角旧幕の頃に染井の植木屋が多く苗木を作って、江戸の内外に植えたものであると言うことは事実であって、十年ばかり前まではこの桜は東京及び付近に限られていたのであるが、今は交通の便が開けて東京ならずともポツポツと他国にも見られるようになった。
染井吉野の特長とも見るべきは、花が咲いてから葉が出ること、咲き立てには薄紅色を帯びているが、十分に咲くと真白に見えて見事であること、花の軸には沢山の毛が生えていること、木の枝が広がっている事などであって、従って本当の山桜とは一見ただちに区別がつくのである。
そしてこの染井吉野は木が早生の方で、花も極めておびただしく、枝ぶりも至って面白いから、公園向きとしては至極結構であるが、惜しいことは木の寿命が短くて、二、三十年も経つと段々に枝が枯れて、木の姿が次第に見苦しくなると言う欠点がある。今の東京の桜の大部分はこの染井吉野で、向島江戸川植物園その他市内の桜の多い所はすべてこの種の桜であることは前にも言った通りである。」

③ソメイヨシノの誕生関連年表 染井の植木屋たちが19世紀後半に売り出した桜の一品種がソメイヨシノ

園芸〈通販〉カタログに掲載される
「吉野桜」の苗木
(豊島区立郷土資料館提供)

《ソメイヨシノ関係事項略年表》
1824(文政7)年 岩崎常正著『武江産物誌』所収「遊観(はなみ)類」の項目に「芳野桜 上野」の記述がある
1841(天保12)年 蜂屋椎園(すいえん)著『椎の実筆』所収「桜の名寄」のなかに、「芳野桜 上野四軒寺町にあり」という記述がある
1847(弘化4)年 坂本浩雪(こうせつ)画「十二ヶ月桜花図」(世田谷区立郷土資料館所蔵)の中に、「四月 吉野」と題された桜の図が描かれている
1874(明治7)年 服部雪齋(はっとりせっさい)の桜のスケッチに「ヨシノト称スルモノ上花」、「明治七年四月十二日写」とある
1880(明治13)年 飛鳥山公園に芳野桜300本を植栽する
1881(明治14)年頃 旧小岩村から金町村までの江戸川堤にソメイヨシノを植樹する
1882(明治15)年 元弘前藩士菊池楯衛が青森県の弘前公園にソメイヨシノを植樹する
1884(明治17)年 江戸川(現神田川)堤に染井より「吉野桜」を取り寄せて植え付け、花見の名所となる
1885(明治18)年頃 植物学者藤野寄命(きめい)が上野公園の桜を調査する
1886(明治19)年 『藤田葆(しげる)日記』(藤田は岩国藩士)に「堅皮吉野桜200本東京よりお買い下し相成 植え方なり」の記述あり
1886(明治19)年 「桜銘鑑」のなかに「吉野桜」の名前があるという
1892(明治25)年 現さいたま市の大宮氷川神社から、埼玉県秩父郡内4か所の神社(①現秩父市番場町の秩父神社、②現小鹿野町の小鹿(おがの)神社、③現秩父市下吉田の椋(むく)神社、④現秩父郡長瀞町の宝登山(ほどさん)神社)にあてて全25株の吉野桜を配布している
1900(明治33)年 植物学者藤野寄命が上野公園の桜に関する報告書で、はじめて「そめいよしの」を用いる
1901(明治34)年 松村任三(じんぞう)によって Prunus Yedoensis Matsumura(プルヌス・エドエンシス・マツムラ)という学名が与えられる
1904(明治37)年 高木孫右衛門作「桜花集」に「吉野 櫻」の記載がある

★「染井吉野(ソメイヨシノ)」は、かつて「芳野・吉野(ヨシノ)」あるいは「吉野桜(ヨシノザクラ)」と呼ばれていた。

④「染井吉野(ソメイヨシノ)」が確認できる初見新聞記事
 『東京朝日新聞』朝刊 明治40年(1907)10月14日
 政治家であり文筆家でもあった村松柳江(恒一郎)による「戦捷紀念 桜樹栽培の記」にて日露戦争後に自身へ下賜された「行賞」の使い道として、
「余は即ち此趣意に於て我郷(筆者註:愛媛県宇和島)の先輩友人諸氏に謀(諮)り東都の名花たる『染井吉野』と称するもの五〇〇株を移植する事とし(後略)」

★東京地方の「名花」としてソメイヨシノを理解し、それを自身の故郷に植樹することで地元の人々に花見を楽しんでもらいたいとする。ソメイヨシノがまだ一般に認知されていないためか「染井吉野」がカギ括弧で括られ、さらに「と称する」という表現になっている。

⑤「染井吉野(ソメイヨシノ)」が確認できる初見書籍

『園芸十二ケ月』. 続
久田二葉 著,読売新聞社,明治41年(1908)刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)

 久田賢輝(久田二葉)著『続園芸十二ケ月』(読売新聞社、明治41年=1908)
 「三月(やよい)  桜花(おうか)の品類(ひんるい)」の部分
「▲吉野桜 これに就て種々の議論がある。元は大和吉野の産で花多く簇(むらが)り、萼(がく)より蕊(しべ)にかけて清く美しいとは『言海』(←明治22年刊行の国語辞典のこと)の謂う所。(中略)
東京に吉野の桜と云ふのがある。隅田川の土手などにもあって、色の薄いものである。アレが吉野にあるかと云ふと無い。吉野ばかりでなく関西地方にはないのである。さらばナゼ吉野桜と云ふかと申すと、染井吉野と云って、東京附近の植木屋が持って来たので、其植木屋の名前で、染井吉野と云ふのだそうで御座います。(中略)兎に角く静岡からアチラにはない。そうして吉野にあるのは山桜で、若い木がぼつぼつある丈けです。」

★世間にはまだ「染井吉野(ソメイヨシノ)」という呼称は浸透しておらず、むしろ「吉野(ヨシノ)」あるいは「吉野桜(ヨシノザクラ)」と呼ばれていた可能性が高い。また上記から「染井」を地名ではなく植木屋の名前(屋号)と解釈している可能性がある。

⑥「染井吉野(ソメイヨシノ)」が確認できる初見園芸カタログ
『武蔵野花園営業案内』(埼玉県北足立郡安行村の武蔵野花園)大正15年(1926)発刊 【「倉重「園芸カタログ」コレクション」】
 表紙裏に「謹んで皇孫殿下の御誕生を祝す」と記され、記念樹として植樹するのに相応しい樹木全10種のなかの一品種として「染井吉野桜」の記述が確認できる。これは当時の皇太子裕仁と同妃良子〈ながこ〉との第一子である照宮成子〈てるのみやしげこ〉(のちの東久邇成子)が大正14年12月に誕生し、これに祝意を表す記念樹植樹の宣伝として掲載されたものと考えられる。

★これ以降「染井吉野(桜)」の記載が定着するかと言えばそうではなく、次に現れるのは昭和13年(1938)発刊の『カタログ 昭和十三年春』(兵庫県川辺郡川西町の福井農園)においてである。
 そこでの記述は、「染井吉野とも云ふ、桜樹中性質極めて強健、容易に成長すべく(後略)」というように、「吉野桜」の別称として使用されている。

⑦呼称としての「染井吉野(ソメイヨシノ)」の浸透
佐藤太平著『桜の日本』(雄山閣、昭和10年=1935)
上野公園の桜について記された部分
「上野は飛鳥山や向島に於ける吉野桜とか、小金井に見る山桜の如き単調なものでなく、頗る数奇を凝らした名木より成り、殊に彼岸桜の集植地として古今独歩の観があった。」
「明治初年以来度々桜の植継が行はれてゐたが、現在公園中の桜の種類としては、吉野・彼岸・山桜・八重等約二千五百本内外の桜樹が全山を蔽(おお)うてゐる。勿論是等の大部分は染井吉野で、其他は極めて尠(すくな)い。
(中略)併し今日上野全山の桜と云へば染井吉野で、竹の台美術館前の広場歩道の両側には明治初年頃植ゑた其老木が残っているが、其他は殆んど若木である。
(中略)山桜も吉野の散りかゝった頃所々に葉桜と共に散見される。」

★「染井吉野(ソメイヨシノ)」という呼称が浸透してきたものの、「染井吉野」の略称として「吉野(ヨシノ)」や「吉野桜(ヨシノザクラ)」が併用されていた可能性が高い。同一書籍にもかかわらず表記が不統一。
◎桜の一品種であるソメイヨシノが広く一般に知られ、「ソメイヨシノ」と呼ばれるようになったのは、実はここ30~40年のことのようだ。
①ソメイヨシノ誕生をめぐるおもな学説と提唱者
  学説要旨 提唱者 典拠
1 ソメイヨシノの原産地は伊豆大島とし、江戸時代に染井の植木屋に移植させ、それ以降東京市内でも栽培されるようになった。 三好 学 『最新植物学講義 下巻』1905年
2 ソメイヨシノの原産地を済州島とした。 小泉源一 「そめゐよしのざくらノ自生地」
『植物学雑誌』第27巻、1913年
3 ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンとの雑種ではないかと推測した。 E.H.ウィルソン 『The Cherries of Japan』1916年
4 ソメイヨシノの原産地は済州島とし、幕末の頃に誰かによって奈良の吉野へ献木、その後江戸へ伝わったのではないかとした。 小泉源一 「染井吉野桜の天生地分明かす」
『植物分類・地理』第1巻2号、1932年
5 ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンとの雑種で、原産地は伊豆半島とした。 竹中要 「サクラの研究(第一報)ソメイヨシノの起源」
『植物学雑誌』第75巻、1962年
6 ソメイヨシノは染井の植木屋河島権兵衛が伊豆半島の山中から採集してきたか、自らの植溜で交配して作り出したか、いずれかであろうとした。 鴻森正三 『THE・桜 続染井吉野桜の起源』1985年
7 ソメイヨシノは染井で1720~35年頃に伊藤伊兵衛政武によってオオシマザクラを母とし、エドヒガンを父として交配・育成されたものであろうとした。 岩﨑文雄 『染井吉野の江戸・染井発生説』(文協社、1999年)

★研究の流れとしては、当初「原木さがし」に終始していたのが、のちに人工交配の可能性を模索するようになっていく。


②ソメイヨシノにまつわる4つのギモン
1.ソメイヨシノの父親と母親の品種は何か? そして自然交配で誕生したのか、人工交配で誕生したのか?
 千葉大学園芸学部・園芸学研究科中村郁郎教授の説(遺伝学の立場から)によると、♀エドヒガン系の園芸品種 × ♂オオシマザクラ系の園芸品種 との人工交配品種がソメイヨシノだろうとする。
 ちなみに、ソメイヨシノは接ぎ木や取り木等でふやすクローン植物である。すべてのソメイヨシノが同じ性質を持つため、同一の環境下では一斉に咲くのであるが、桜前線という用語は、日本の大部分にまんべんなくソメイヨシノが植えられていることと、ソメイヨシノがクローンであることではじめて成り立つ。

 植物の世界ではクローンは珍しくないのです。
2.誕生時期と伝播時期はいつか?
 先ほど掲げた《ソメイヨシノ関係事項略年表》から考えると、19世紀前半に誕生し、19世紀後半以降全国に伝播したと考えられる。
 18世紀前半に染井の植木屋伊藤伊兵衛政武が人工交配で誕生させたとする説にはギモンが残る(後述)。
3.発祥の地はどこか? 限定できるのか?
 呼称に染井(ソメイ)という地名が含まれること、また染井の植木屋の活躍(歴史的背景)から考えて、発祥地は駒込の染井地域(やや広く言えば駒込)で、染井の植木屋たちが売り広めたとして良いだろう。
 西福寺先代住職談としてこのような記載もある。「(染井の植木屋の古老たちが集まった際)数人の植木屋が〝俺の家の先祖が(ソメイヨシノを)作ったんだ〟と主張し、集まりが大混乱致しましたので、先代住職が話題を違うものに変えたのが真相です」「苦肉の策として、染井の植木屋が協同で作り出したと私なりに考えをまとめたのです」
 【岩﨑文雄著『染井吉野の江戸・染井発生説』(文協社、1999年)35-36頁】
4.なぜ短期間で全国に伝播したのか?
 多くは今後の課題であるが、下記の要因が考えられる。

 ①花の咲き方の豪華であり、葉が出る前に花が咲きそろうこと。
 ②樹形が美しく生長がきわめて早いこと。
 ③根付いて生長(活着)しやすく、植物管理が比較的容易であること。
 ④通信販売による植物苗の普及。種苗の通信販売はすでに19世紀後半から始まっており、手軽に入手できる環境が整いつつあったこと。
 ⑤苗木が安価であるため、並木の整備や植樹といった官民どちらかというと官が主導で行う事業では費用対効果が高かったこと。

③ソメイヨシノ誕生に関しての見解

エドヒガン

1.ソメイヨシノの誕生については、人工交配か自然交配か結論づけるのは早計(裏付ける根拠がいずれもあいまい)。

2.江戸時代半ば以降、現在の染井通り沿いには十数軒の植木屋が集住し、四季折々の植物を植え並べ、多くの花見遊覧客を迎えていた。また、植木屋たちの栽培技術の高さも評価されている。

3.こうした染井の植木屋たちの活躍実績や植物栽培技術の高さの延長上にソメイヨシノの発祥地を位置づけたい。染井の植木屋たちが売り出した桜がヨシノザクラ(ないしはヨシノ)であり、その後発祥地の地名を冠して明治34年(1901)にソメイヨシノという標準和名が付与されたと考える。

4.伊藤伊兵衛政武がソメイヨシノの誕生に関わっていたという説には否定的。その理由は以下の2点。
1)ヨシノザクラの呼称が文献上に現れるのは、19世紀に入ってからであること。
2)元文4(1739)年6月伊藤伊兵衛政武73歳の時に成立したあることのうち巻14に所収されている桜の品種40種の中にヨシノザクラは登場せず、『本艸花蒔絵』(全20巻)また花弁のスケッチも似たものは見られない。
 同書は、長年にわたって植物栽培と販売に携わってきた伊藤伊兵衛政武の〝思い〟が網羅された植物図譜の集大成と評価されるものであり、自らが誕生させたならば、その品種を本書で取り上げないことはきわめて不自然。

 5.たとえば、明治17年(1884)3月には現在の神田川沿いに初めてソメイヨシノが植樹され、その経緯を明治39年(1906)11月発刊の『風俗画報』のなかで、「染井より吉野桜を取寄せて」植えた旨が記されており、この時期の刊行物に染井からヨシノザクラを取り寄せたことが記されていることは、その誕生の詳細を知るうえで重要である。
★郷土資料館によるいわば染井の植木屋売り出し説は、ソメイヨシノの誕生経緯が必ずしも明らかになっていない現状のなかで、一定の有効性を持つものと言える。

オオシマザクラ

ソメイヨシノ


④森林総合研究所多摩森林科学園の検証によって明らかになったソメイヨシノ交配図(想定)
【前提として ソメイヨシノは本当にクローンなのかについて検証】
・全国10か所からソメイヨシノのサンプルを選択し遺伝子の配列を検証。その結果すべてのソメイヨシノが同一の遺伝子を持っていることが高い精度で確認できた(国立研究開発法人森林総合研究所にて実施)。
【クローンであるソメイヨシノの起源をさぐる検証】
・日本に分布する野生種(チョウジザクラ、カンヒザクラ、マメザクラ、ヤマザクラ、カスミザクラ、ミヤマザクラ、タカネザクラ、オオヤマザクラ、エドヒガン、オオシマザクラ)10種のなかでどの種とどの種のブレンドなのかを遺伝子レベルで検証。
 その結果エドヒガン47%、オオシマザクラ37%、ヤマザクラ11%、不明5%という結果を得る(国立研究開発法人森林総合研究所多摩森林科学園にて実施)。