※このコーナーは豊島区立郷土資料館 学芸員 秋山伸一氏の監修のもと、2016年11月5日(土)に開催された豊島ミュージアム講座 第3回 ソメイヨシノ研究最前線(於南大塚地域文化創造館)の資料を、インターネット公開用に編集・作成いたしました。
※掲載の図版はすべて権利者の許諾を得て掲載しています。
①「江戸一目図屏風(えどひとめずびょうぶ)」で江戸の町を眺める | |
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「江戸一目図屏風」(津山博物館所蔵) |
鍬形蕙斎(くわがた・けいさい)画「江戸一目図屏風(えどひとめずびょうぶ)」 文化6(1809)年成立 津山郷土博物館所蔵 岡山県指定重要文化財 隅田川東岸上空から西方向を見下ろす形(東京スカイツリーの展望台から眺めるイメージ)で江戸の町を描いた六曲一隻(ろっきょくいっせき)の屏風絵。かなりの起伏があり、また緑が豊かだった様子がうかがえる。 江戸一目図屏風をさらに詳細に見る場合はこちらへ (津山郷土博物館/「江戸一目図屏風」等) |
赤色部分拡大図 |
⑤江戸時代に描かれた染井の植木屋 | |
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嘉永3(1850)年~慶応3(1867)にかけて刊行された |
当時の染井の植木屋は、現在の植物園に最も近いものと言える。 |
「江戸名勝図会 染井」(歌川広重画) |
①現在の地図にみる染井の植木屋位置図(黄色部分) |
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(豊島区立郷土資料館提供) |
②「江戸切絵図」(染井・王子・巣鴨辺絵図)にみる染井の植木屋の位置 「此辺染井村 植木屋多シ」との記述がある |
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染井王子巣鴨邊繪圖 |
[この周辺を江戸切絵図で詳細に見る] |
⑤染井の植木屋伊藤伊兵衛家について | |
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「藤堂和泉守殿染井下屋敷図」 |
もともとは藤堂家の江戸下屋敷に出入りする農民だった伊藤伊兵衛家は、なぜのちに「江戸第一の植木屋」と言われるまでになったのか?
・藤堂家の屋敷で不要となった植物を持ち帰り、自宅で栽培しているうちに植木屋になったという(『東都紀行』の記述による)。
・伊兵衛は、身分的には上駒込村染井に居住する農民のため、自分が所持する耕地(畑)には年貢がかかる。 ただし、畑の年貢は現物納ではなく金銭納だったため、一般に農民たちは換金率の高い商品作物を植え付けた。伊兵衛の場合、それが植物栽培であり、しかも経営がうまくいったのではないか。 染井地域の伊藤姓を名乗る家は、多くが伊兵衛家の分家筋と考えられるが、商品作物として植物栽培を行いそれが軌道に乗ったためそれぞれが植木屋を経営し繁栄していったものと思われる。 |
⑥享和三(一八〇三)年板行『絵本江戸桜』(北尾政美画・十返舎一九序)に描かれる植木屋伊藤伊兵衛の庭 | |
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『絵本江戸桜』染井之植木屋 |
染井之植木屋 花屋の伊兵衛といふ、つゝじを植しおびただし、花のころハ貴賎群集す、其外千草万木かずをつくすとなし、江都第一の植木屋なり、上々方の御庭木・鉢植など、大かた此ところよりさゝぐること毎日毎日なり [伊藤伊兵衛の庭を詳しく見る] |
⑦伊兵衛家の衰退と染井の植木屋 | |
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『草木奇品家雅見』 3巻. [3] |
伊藤伊兵衛家は江戸時代後半期に徐々に衰退していくという。
江戸園芸の大きな流れとして、江戸時代前半は武家(屋敷)や寺社(庭園)を中心にした植木(地植え)園芸が盛ん、一方江戸時代後半になると、庶民を含めた鉢植え園芸へと転換していく傾向が読み取れる(斑入りの植物を珍重する奇品〈きひん〉の流行など)。
代々伊藤伊兵衛家は、ツツジ、サツキ、カエデといった植木園芸を得意としており、上記のような江戸園芸の流れにうまく対応できず、徐々に衰退していったのではないか。 柳沢信鴻(大和郡山藩第2代藩主=柳沢吉保の孫)による『宴遊日記』安永4(1775)年1月11日条には下記のように書かれている。 「伊兵衛庭を廻り見る、庭中木葉埋み、去々年より又々零落」 ★その一方で、染井の植木屋全体としては、お互いを敵対視するのではなく、ひとつのチームとして団結・協力しながら繁栄していく。 |
⑧『草木奇品家雅見(そうもくきひんかがみ)』に描かれる駒込・巣鴨の植木屋による奇品 | |
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『草木奇品家雅見』 3巻. [3] |
奇品(葉に斑が入ったりした形状が特異な草木のこと)のなかでも特に珍しいものにはひと鉢数百両もの値がつき取引された。そのため、盗品として奇品が狙われ、実際に盗まれた事例も確認できる。 |
『草木奇品家雅見』 3巻. [3] |
①見立番付「草木花角力(そうもくはなずもう)」 | |
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「草木花角力」,江戸時代 |
見立番付(みたてばんづけ)…相撲の番付にならい、様々な事物に序列をつけた一覧表。江戸時代から明治時代にかけて一枚摺りの読み物として売られ、庶民の間で流行した。
◎前提として、一八世紀後半には、庶民を含め春に桜花を楽しむことが定着していたことが、先行研究から明らかになっている。
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④「染井吉野(ソメイヨシノ)」が確認できる初見新聞記事 | |
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『東京朝日新聞』朝刊 明治40年(1907)10月14日
政治家であり文筆家でもあった村松柳江(恒一郎)による「戦捷紀念 桜樹栽培の記」にて日露戦争後に自身へ下賜された「行賞」の使い道として、
「余は即ち此趣意に於て我郷(筆者註:愛媛県宇和島)の先輩友人諸氏に謀(諮)り東都の名花たる『染井吉野』と称するもの五〇〇株を移植する事とし(後略)」 ★東京地方の「名花」としてソメイヨシノを理解し、それを自身の故郷に植樹することで地元の人々に花見を楽しんでもらいたいとする。ソメイヨシノがまだ一般に認知されていないためか「染井吉野」がカギ括弧で括られ、さらに「と称する」という表現になっている。 |
⑤「染井吉野(ソメイヨシノ)」が確認できる初見書籍 | |
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『園芸十二ケ月』. 続 |
久田賢輝(久田二葉)著『続園芸十二ケ月』(読売新聞社、明治41年=1908) 「三月(やよい) 桜花(おうか)の品類(ひんるい)」の部分
「▲吉野桜 これに就て種々の議論がある。元は大和吉野の産で花多く簇(むらが)り、萼(がく)より蕊(しべ)にかけて清く美しいとは『言海』(←明治22年刊行の国語辞典のこと)の謂う所。(中略)
東京に吉野の桜と云ふのがある。隅田川の土手などにもあって、色の薄いものである。アレが吉野にあるかと云ふと無い。吉野ばかりでなく関西地方にはないのである。さらばナゼ吉野桜と云ふかと申すと、染井吉野と云って、東京附近の植木屋が持って来たので、其植木屋の名前で、染井吉野と云ふのだそうで御座います。(中略)兎に角く静岡からアチラにはない。そうして吉野にあるのは山桜で、若い木がぼつぼつある丈けです。」 ★世間にはまだ「染井吉野(ソメイヨシノ)」という呼称は浸透しておらず、むしろ「吉野(ヨシノ)」あるいは「吉野桜(ヨシノザクラ)」と呼ばれていた可能性が高い。また上記から「染井」を地名ではなく植木屋の名前(屋号)と解釈している可能性がある。 |
⑥「染井吉野(ソメイヨシノ)」が確認できる初見園芸カタログ | |
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『武蔵野花園営業案内』(埼玉県北足立郡安行村の武蔵野花園)大正15年(1926)発刊 【「倉重「園芸カタログ」コレクション」】
表紙裏に「謹んで皇孫殿下の御誕生を祝す」と記され、記念樹として植樹するのに相応しい樹木全10種のなかの一品種として「染井吉野桜」の記述が確認できる。これは当時の皇太子裕仁と同妃良子〈ながこ〉との第一子である照宮成子〈てるのみやしげこ〉(のちの東久邇成子)が大正14年12月に誕生し、これに祝意を表す記念樹植樹の宣伝として掲載されたものと考えられる。
★これ以降「染井吉野(桜)」の記載が定着するかと言えばそうではなく、次に現れるのは昭和13年(1938)発刊の『カタログ 昭和十三年春』(兵庫県川辺郡川西町の福井農園)においてである。 そこでの記述は、「染井吉野とも云ふ、桜樹中性質極めて強健、容易に成長すべく(後略)」というように、「吉野桜」の別称として使用されている。 |
⑦呼称としての「染井吉野(ソメイヨシノ)」の浸透 | |
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佐藤太平著『桜の日本』(雄山閣、昭和10年=1935) 上野公園の桜について記された部分
「上野は飛鳥山や向島に於ける吉野桜とか、小金井に見る山桜の如き単調なものでなく、頗る数奇を凝らした名木より成り、殊に彼岸桜の集植地として古今独歩の観があった。」
「明治初年以来度々桜の植継が行はれてゐたが、現在公園中の桜の種類としては、吉野・彼岸・山桜・八重等約二千五百本内外の桜樹が全山を蔽(おお)うてゐる。勿論是等の大部分は染井吉野で、其他は極めて尠(すくな)い。 (中略)併し今日上野全山の桜と云へば染井吉野で、竹の台美術館前の広場歩道の両側には明治初年頃植ゑた其老木が残っているが、其他は殆んど若木である。 (中略)山桜も吉野の散りかゝった頃所々に葉桜と共に散見される。」 ★「染井吉野(ソメイヨシノ)」という呼称が浸透してきたものの、「染井吉野」の略称として「吉野(ヨシノ)」や「吉野桜(ヨシノザクラ)」が併用されていた可能性が高い。同一書籍にもかかわらず表記が不統一。 ◎桜の一品種であるソメイヨシノが広く一般に知られ、「ソメイヨシノ」と呼ばれるようになったのは、実はここ30~40年のことのようだ。 |
①ソメイヨシノ誕生をめぐるおもな学説と提唱者 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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★研究の流れとしては、当初「原木さがし」に終始していたのが、のちに人工交配の可能性を模索するようになっていく。 |
②ソメイヨシノにまつわる4つのギモン | |
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1.ソメイヨシノの父親と母親の品種は何か? そして自然交配で誕生したのか、人工交配で誕生したのか?
千葉大学園芸学部・園芸学研究科中村郁郎教授の説(遺伝学の立場から)によると、♀エドヒガン系の園芸品種 × ♂オオシマザクラ系の園芸品種 との人工交配品種がソメイヨシノだろうとする。
ちなみに、ソメイヨシノは接ぎ木や取り木等でふやすクローン植物である。すべてのソメイヨシノが同じ性質を持つため、同一の環境下では一斉に咲くのであるが、桜前線という用語は、日本の大部分にまんべんなくソメイヨシノが植えられていることと、ソメイヨシノがクローンであることではじめて成り立つ。 植物の世界ではクローンは珍しくないのです。 |
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2.誕生時期と伝播時期はいつか?
先ほど掲げた《ソメイヨシノ関係事項略年表》から考えると、19世紀前半に誕生し、19世紀後半以降全国に伝播したと考えられる。
18世紀前半に染井の植木屋伊藤伊兵衛政武が人工交配で誕生させたとする説にはギモンが残る(後述)。 |
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3.発祥の地はどこか? 限定できるのか?
呼称に染井(ソメイ)という地名が含まれること、また染井の植木屋の活躍(歴史的背景)から考えて、発祥地は駒込の染井地域(やや広く言えば駒込)で、染井の植木屋たちが売り広めたとして良いだろう。
西福寺先代住職談としてこのような記載もある。「(染井の植木屋の古老たちが集まった際)数人の植木屋が〝俺の家の先祖が(ソメイヨシノを)作ったんだ〟と主張し、集まりが大混乱致しましたので、先代住職が話題を違うものに変えたのが真相です」「苦肉の策として、染井の植木屋が協同で作り出したと私なりに考えをまとめたのです」 【岩﨑文雄著『染井吉野の江戸・染井発生説』(文協社、1999年)35-36頁】 |
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4.なぜ短期間で全国に伝播したのか?
多くは今後の課題であるが、下記の要因が考えられる。
①花の咲き方の豪華であり、葉が出る前に花が咲きそろうこと。 ②樹形が美しく生長がきわめて早いこと。 ③根付いて生長(活着)しやすく、植物管理が比較的容易であること。 ④通信販売による植物苗の普及。種苗の通信販売はすでに19世紀後半から始まっており、手軽に入手できる環境が整いつつあったこと。 ⑤苗木が安価であるため、並木の整備や植樹といった官民どちらかというと官が主導で行う事業では費用対効果が高かったこと。 |
③ソメイヨシノ誕生に関しての見解 | |
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エドヒガン |
1.ソメイヨシノの誕生については、人工交配か自然交配か結論づけるのは早計(裏付ける根拠がいずれもあいまい)。 2.江戸時代半ば以降、現在の染井通り沿いには十数軒の植木屋が集住し、四季折々の植物を植え並べ、多くの花見遊覧客を迎えていた。また、植木屋たちの栽培技術の高さも評価されている。 3.こうした染井の植木屋たちの活躍実績や植物栽培技術の高さの延長上にソメイヨシノの発祥地を位置づけたい。染井の植木屋たちが売り出した桜がヨシノザクラ(ないしはヨシノ)であり、その後発祥地の地名を冠して明治34年(1901)にソメイヨシノという標準和名が付与されたと考える。 4.伊藤伊兵衛政武がソメイヨシノの誕生に関わっていたという説には否定的。その理由は以下の2点。
1)ヨシノザクラの呼称が文献上に現れるのは、19世紀に入ってからであること。
2)元文4(1739)年6月伊藤伊兵衛政武73歳の時に成立したあることのうち巻14に所収されている桜の品種40種の中にヨシノザクラは登場せず、『本艸花蒔絵』(全20巻)また花弁のスケッチも似たものは見られない。 同書は、長年にわたって植物栽培と販売に携わってきた伊藤伊兵衛政武の〝思い〟が網羅された植物図譜の集大成と評価されるものであり、自らが誕生させたならば、その品種を本書で取り上げないことはきわめて不自然。 5.たとえば、明治17年(1884)3月には現在の神田川沿いに初めてソメイヨシノが植樹され、その経緯を明治39年(1906)11月発刊の『風俗画報』のなかで、「染井より吉野桜を取寄せて」植えた旨が記されており、この時期の刊行物に染井からヨシノザクラを取り寄せたことが記されていることは、その誕生の詳細を知るうえで重要である。
★郷土資料館によるいわば染井の植木屋売り出し説は、ソメイヨシノの誕生経緯が必ずしも明らかになっていない現状のなかで、一定の有効性を持つものと言える。
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オオシマザクラ |
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ソメイヨシノ |
④森林総合研究所多摩森林科学園の検証によって明らかになったソメイヨシノ交配図(想定) | |
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【前提として ソメイヨシノは本当にクローンなのかについて検証】
・全国10か所からソメイヨシノのサンプルを選択し遺伝子の配列を検証。その結果すべてのソメイヨシノが同一の遺伝子を持っていることが高い精度で確認できた(国立研究開発法人森林総合研究所にて実施)。
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【クローンであるソメイヨシノの起源をさぐる検証】
・日本に分布する野生種(チョウジザクラ、カンヒザクラ、マメザクラ、ヤマザクラ、カスミザクラ、ミヤマザクラ、タカネザクラ、オオヤマザクラ、エドヒガン、オオシマザクラ)10種のなかでどの種とどの種のブレンドなのかを遺伝子レベルで検証。
その結果エドヒガン47%、オオシマザクラ37%、ヤマザクラ11%、不明5%という結果を得る(国立研究開発法人森林総合研究所多摩森林科学園にて実施)。 |