『野ばら社』 北区西ヶ原1-16-4 | ||
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“共存共栄、 一人だけ栄えてもダメでしょ” 昔の暮らしの風景の全体像は文献などを見ればわかるが、細部を見ると、どうだろう。例えば“本"。駒込界隈にある出版社・野ばら社の社長 志村文世さん(大正15年生)に話を伺った。野ばら社は昭和4年創業。唱歌・軍歌・図案集など実用書に特徴のある出版社だ。 「やはり戦後の印象は強烈。」志村社長は言う。「この辺りは古河庭園があり、地主の人が持っていた土地がいいものだから、米軍が接収するために、被害が少なかった。」野ばら社はその為、会社が焼けていない。ただ物資不足から紙が手に入らない。先代がそこでひらめいたのが、在庫で大量にあった上質紙とクロース(布)で手帳を作ることだった。 「製本屋を呼んでね、生き延びるための苦肉の作。これが戦後一発目の仕事。」それから、野ばら社再建に一役買った本がある。“児童年鑑"の復刊だ。それまで売れ筋だった児童年鑑(初版昭和8年)も戦争下の影響で断絶。これを復刊したら絶対また売れると、出入りの紙屋と印刷屋が声を掛けてくれて援助もしてくれた。「先代の信用の賜物」と志村社長は話す。 そしてもう一つに、野ばら社の代名詞でもある“図案辞典"だ。「絵描きは戦後、絵を書いてもお金にならず、その画家たちが図案などを書いて持ち込んだ。それらを集めて出版した一つにこの図案辞典がある。「昭和20年代は本をつくるとすぐ売れた時代。戦争の影響でしばらく活字に飢えていたから。今とは時代が違うね。」淡々と話す志村社長。 持ち込まれた原稿はすべて引き受けた。印刷代金の支払いや原稿料もすべて現金ですぐに出す。皆が生活できるように。「共存共栄するためには自分だけ栄えてはダメ。物事はあまり複雑に考えてもダメだね。」社長の“誠実に"“ごまかしはしない"この信条で野ばら社を再建させた。 『図案辞典』は現在も増刷を重ねるロングセラーだ。まさに共存共栄が生んだ本。誠実な仕事でこれからも野ばら社はありつづける。(文・安島) |
*インタビュー方:野ばら社代表 志村文世さん |
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■野ばら社『図案辞典』 |
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■野ばら社『児童年鑑』 |
『都電の駅』駒込1丁目付近 | ||
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大正12年頃の、都電の駅。現在の南口ロータリー付近。奥の森は六義園。 高い建物がない時代、六義園の木々が際立って自然に際立って見える。 (駒込小学校 創立百周年記念誌より) |
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大正12年頃の、都電の駅。 |
駒込駅南口ロータリー付近。 |
『磁石台に座るおかっぱの女の子』駒込3丁目 | ||
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駒込駅~巣鴨間の磁石台に、おかっぱ頭の女の子が座っている。 この下の辺りには、“ドブ川”があったそうだ。 「当時は、ここに下糸を垂らして、子どもたちは、ザリガニ釣りをして遊んでいたよ。」林カメラの林さんが証言してくれた。 自然が身近に感じられた昭和30年代。 (文・安島) |
*インタビュー方:林カメラ 林幹夫さん *昭和30年代。 |
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磁石台に座る女の子。 |
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『富士神社付近 お菓子や“高砂屋”』文京区本駒込5-1-2 | ||
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昭和30年代~昭和40年代。 富士神社にほど近い場所には、藤沼さんの御親戚が商うお菓子や“高砂屋”があった。 お祭になると、神社にちなんだ“富士山の形”をしたラクガンを売っていたそうだ。 |
*インタビュー方:フジヌマタバコ店 藤沼幸男さん |
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昭和30年代~40年代。 お菓子や”高砂屋”。 |
現在、お店のあった場所は空き地になっている。 |
『保存食料品“川崎屋”』駒込2-3-1 | ||
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1950年代。秋祭の風景。山車(だし)を引っ張っている様子。“保存食料品”とあるところは、食料品店であった“川崎屋”。現在銀行が入店する六興ビルの前身だ。 | ||
1950年代。秋祭の風景。 |
現在の六興ビル。 |