東金市/東金市デジタル歴史館

序章 東金市の歴史

現代にいたるまで、東金市は様々な変化を重ねてきました。このページでは、東金市の歴史を時代別にご紹介します。
『東金市史 別冊』の年表と合わせてご覧ください。

旧石器時代の東金

「旧石器時代」は、約25万年前~4万年前頃といわれており、日本では昭和24(1949)年、相沢忠洋が群馬県の岩宿遺跡で関東ローム層中からこの時代の石器を発見したことがきっかけで知られるようになりました。
 東金市では以下の遺跡から、旧石器時代の遺物が出土しました。

※東金市内の主な旧石器時代遺跡(発掘調査された遺跡)
遺跡名所在地遺物備考
鉢ヶ谷はちがや遺跡東金市小野字西ノ浦1064番地ほか打製石斧・ナイフ形石器・掻器・削器・彫刻刀形石器 等石器集中個所(環状ブロック5ヶ所・ブロック2ヶ所)
滝東台たきひがしだい遺跡東金市油井字丑子台1164番地2石刃・削器・石核・彫器・剥片石器集中個所(ブロック2ヶ所)
鉢ヶ谷遺跡 出土遺物

鉢ヶ谷遺跡の発掘の様子。いわゆる関東ローム層(約1万2千年以上前の層)より遺物が出土していることがわかります。

縄文時代の東金

「縄文時代」は約1万3千年前から約2千3百年前までといわれており、土器の形式から、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6つに時期が区分されています。
 縄文時代の人々は、狩った動物や魚、採集した木の実等を食べて過ごしていました。食糧の調理や木の実の貯蔵等に、土器が使用されていたといわれています。
 東金市内でも、縄文時代の遺跡が複数発見されています。下記の表はその一部の遺跡です。

※東金市内の主な縄文時代遺跡(発掘調査された遺跡)
遺跡名所在地時期遺構・遺物備考
大谷台おおたにだい遺跡東金市滝字大谷台144番地ほか草創期~前期(主体)炉穴・土坑、微隆起線文土器・条痕文土器・石器群 等東金市最古の土器出土
木滝台きたきだい遺跡不明早期不明
羽戸はど遺跡東金市小野字西ノ上1312番地ほか中期竪穴住居跡、有段状建物跡、土坑群小集落ながら特異的な有段建物跡が7軒検出された。

なお、この時代の食糧や狩猟・採集の風景は、『千葉県の歴史 資料編 考古1』に掲載されている「四季のカレンダー」で描かれています。そちらもご覧いただきながら、縄文時代の生活をイメージしてください。

千葉県の歴史「四季カレンダー」図 佐藤喜一郎作成
千葉県の歴史「四季カレンダー」図 佐藤喜一郎作成

弥生時代の東金

「弥生時代」は、紀元前5世紀頃から紀元3世紀頃までといわれており、稲作中心の農耕文化が発展した時代です。縄文時代とは違う新たな土器・石器に加え、金属器も使用されました。また、階級が生まれたのもこの頃だといわれています。
 今回は弥生時代の考古資料の中から、「道庭遺跡」から出土したものをデジタル化しました。

※東金市内の主な弥生時代遺跡(発掘調査された遺跡)
遺跡名所在地時期遺構・遺物備考
道庭どうにわ遺跡東金市家之子1059番地ほか弥生中期~古墳前期遺構:住居跡・方形周溝募・環濠
遺物:土器・石器・銅鏃・紡錘車等
昭和52年・平成4年・同8年調査。山邊郡最大の弥生遺跡。

古墳時代の東金

古墳時代は3世紀末~7世紀頃といわれています。当時の有力者の墓として、古墳が各地に作られたため「古墳時代」と名づけられました。「ヤマト王権」と呼ばれる勢力が発展したのもこの頃といわれています。
 この時代、現在の山武地域は、芝山周辺を中心とした「武射郡むしゃぐん」と、東金市・大網白里市周辺を中心とした「山邊郡やまのべぐん」に分かれていました。武射郡は大きな古墳が多く、強い勢力の存在が伺えますが、山邊郡は規模の小さな古墳や副葬品の様子から、小国であったとされています。
 東金地域では現在、極楽寺古墳群・滝沢古墳群・菅谷古墳群・油井古塚原古墳群・家之子古墳群・道庭古墳群など合計12ヵ所の古墳群が確認されています。今回は、古墳時代の考古資料のなかで、「油井古塚原古墳群」「稲荷谷遺跡」から発掘された資料をデジタル化しました。

養安寺3号墳の埋葬施設(木棺埋葬)

鉢ヶ谷遺跡内にある養安寺3号墳の埋葬施設(木棺埋葬)。直刀や鉄鏃が出土した。

※東金市内の主な古墳時代遺跡(発掘調査された遺跡)
遺跡名所在地時期遺構・遺物備考
油井古塚原ゆいこづかはら遺跡31号墳東金市油井字丑子台6世紀後半円墳7基。特に31号墳より銅鋺、直刀、耳環、鉄族などが出土。昭和63年調査
養安寺ようあんじ3号墳(養安寺古墳群)東金市小野字十石7世紀前葉円墳1基(周溝外径約30m、墳丘高さ約2m)。埋葬施設2基。直刀2振、鉄鏃多数。平成8年調査

奈良・平安時代の東金

奈良・平安時代は、近畿地方が政治の中心となった時代です。律令制度をもとに支配が行われた奈良時代、荘園による土地支配がはじまった平安時代と、支配体制の変化があった時代でした。
 東金市内のこの時期の遺跡からは、土器類・陶器類の他、木製や鉄製の農具・工具、鉄鏃などの武器類、様々な機能をもった遺物が検出されました。中でも、墨書土器や文字瓦には「人名」、「地名」、「建物の名称」、「官人等の役職・機構」「仏教などの信仰に関連するもの」などが記されており、古代の体制を示す文字資料として貴重なものとなっています。
 今回は、奈良・平安時代の考古資料の中から、たくさんの墨書土器や、鉄製品等をデジタル化しました。なお、律令体制を示しうる建造物の遺構等からも、当時の支配体制の一部を垣間見ることができます。下の写真から当時を想像してみてください。

  • 稲荷谷遺跡Ⅳ区 建物跡
    ①稲荷谷遺跡Ⅳ区の主要建物跡。
  • 稲荷谷遺跡Ⅲ区 方形区画墓
    ②稲荷谷遺跡Ⅲ区より検出された方形区画墓。
※東金市内の主な奈良・平安時代遺跡(発掘調査された遺跡)
遺跡名所在地遺構・遺物備考
山田水呑やまだみずのみ遺跡東金市山田字水呑新田竪穴住居跡・掘立柱建物跡・土坑等
土師器・須恵器・灰釉陶器・鉄器等
墨書土器「山邊」「山口館」「佐倉」「井」など出土。昭和45~46年調査。
新林しんばやしⅠ~Ⅳ遺跡東金市山田字新林883番地ほか竪穴住居跡・掘立柱建物跡・土坑等
土師器・須恵器・鉄製品・石製品等
寺跡(上総国分僧寺と同范の瓦出土)、墨書「山口万」「丁」等出土。昭和58~平成元年調査。
鉢ヶ谷はちがや遺跡・羽戸はど遺跡・尾亭おて遺跡・稲荷谷いなりやつ遺跡東金市小野字鉢ヶ谷1113番地ほか竪穴住居跡・掘立柱建物跡・土坑等
土師器・須恵器・灰釉陶器・鉄器・青銅器等
古墳後期~平安時代前期(9世紀)の大集落。古代山邊郡の主要村。平成5~9年調査。
作畑さくはた遺跡東金市油井字作畑224番地ほか竪穴住居跡・掘立柱建物跡
土師器・須恵器・鉄製品・石製品等
集落の一部だが、寺院跡や特徴的な墨書が出土。昭和58~59年調査。
滝東台たきひがしだい遺跡・油井古塚原ゆいこづかはら遺跡(A地区)・外荒そとあら遺跡・作畑さくはた遺跡東金市油井字丑子台1178番地8ほか竪穴住居跡・掘立柱建物跡
土師器・須恵器・鉄製品・石製品・青銅製品等
大規模な集落跡。墨書土器多数出土。昭和62年~平成3年調査。
海老ヶ谷えびがや遺跡・中谷遺跡・妙経遺跡・井戸向遺跡・東金黒田遺跡・椎木台遺跡・天王遺跡・谷台遺跡・小油井台遺跡・丸山遺跡東金市松之郷字海老ヶ谷2081番地ほか竪穴住居跡・掘立柱建物跡・方形区画慕・土坑群
土師器・須恵器・灰釉陶器・瓦・鉄製品・石製品・青銅製品等
大規模な集落跡。特に古墳時代後期~奈良時代の集落跡が顕著にみられる。昭和50~52年調査。
久我台くがだい遺跡東金市松之郷字久我台竪穴住居跡・掘立柱建物跡等
土師器・須恵器・鉄製品・石製品等
古墳後期からの集落跡。古代菅屋郷に属する。昭和57~60年調査。

鎌倉時代~安土桃山時代の東金

鎌倉時代から安土桃山時代にかけて、東金市で起こったという出来事について紹介します。

○鎌倉時代

建長元(1249)年、北条長時が東金市松之郷(現 東金商業高等学校)に久我城を築いたといわれています。松之郷には、八坂神社や願成就寺、本松寺など、北条長時が関係したといわれる寺社があります。

○南北朝時代

護良親王の娘(妃とも)である華蔵姫は、中先代の乱(建武2(1335)年)から逃れて東金市家之子に隠れ住んだといわれています。華蔵姫が住んでいたとされる場所には、華蔵山妙宣寺が建立されています。

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○室町時代

田間城や東金城を拠点として、東金酒井氏が5代にわたって東金周辺を支配していました。初代の酒井定隆は、領内全域の寺を日蓮宗に改宗させたといわれています。

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○安土桃山時代

戦国大名の里見氏と後北条氏との間で、東金酒井氏は立場を変えながら支配を維持していました。天正18(1590)年、豊臣秀吉による小田原征伐のときに後北条氏に味方していたため、豊臣軍の攻撃を受け、東金酒井氏の支配は終わります。

江戸時代の東金

江戸時代の東金について、出来事や人物を中心に紹介します。

○徳川将軍の鷹狩り

東金には徳川家康・秀忠・家光と、3代にわたって徳川将軍家が鷹狩りに訪れています。徳川将軍が宿泊した「東金御殿」があった場所は、現在千葉県立東金高等学校が建っています。

○義民「市東刑部左衛門」

慶長10(1605)年、東金で飢饉がおこったとき、人々が困窮する状況を憂えた市東刑部左衛門は、幕府の役人に年貢徴収の延期を願い出ました。しかし聞き入れられなかったため、刑部左衛門は独断で米蔵を開放して人々に米を配り、その後最福寺の門前で自刃したといわれています。東金市日吉台にある木戸公園には「市東塚」と呼ばれる塚が残っています。

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○雄蛇ヶ池と八鶴湖

東金市の観光地である雄蛇ヶ池と八鶴湖。どちらも慶長19(1614)年に完成しました。
 雄蛇ヶ池は、嶋田伊伯によって造成されました。雄蛇ヶ池の完成によって、周囲の農業用水や生活用水が確保されました。
 一方八鶴湖は、東金御殿の庭池として造成されたといわれていますが、東金のため池として重要な役割も担っていました。

○東金に関係する学者たち

『農政本論』『経済要録』等を著した佐藤信淵は、一時期東金市大豆谷(まめざく)に滞在し、農民や門人に農業技術を指導したといわれています。
 また、稲葉迂斎・黙斎父子によって広められた上総道学を、櫻木誾斎大木忠篤といった東金出身の人物が学びました。他にも、儒学を教えた久我政右衛門、和算(日本古来の数学)を教えた植松是勝など、多くの学者によって東金は学問が盛んな地となりました。
 なお、東金には学問を勉強する塾もありました。妙経寺(東金市大沼田)にあった「大沼田檀林」や、関寛斎の養父・素寿の私塾「製錦堂」などです。

○幕末・明治に活躍する人物

徳島藩藩医・奥羽出張病院頭取・陸別町の開拓等の活躍をした関寛斎。相撲界の改革をすすめた初代高砂浦五郎。また、庄内藩所属の警備組織「新徴組」に所属した伊藤瀧三郎など、東金出身者が幕末・明治時代にその名を残しています。

明治~昭和時代の東金

明治時代から昭和時代の東金について、出来事や人物を中心に紹介します。

○明治時代

東金地域は木更津県に編入されます。新政府による様々な制度に則り、学校・郵便局・警察署・役所などが設けられます。東金町最初の町長には、杉谷直道が選挙で選ばれます。
 明治16(1883)年12月、現在の岩崎地区や新宿地区で大火事がおこり、広範囲にわたって被害が出ますが、2年後には警察署が再建されるなど、復興も迅速に行われました。

○大正時代

大正9(1920)年、成東・東金食虫植物群落が、全国で最初に国指定天然記念物となりました。また、東金~九十九里間に「九十九里鉄道」が開通し、東金の交通網が発達します。

○昭和時代

県立病院や商業高校、図書館など様々な施設が設置され、東金は発展を遂げますが、昭和19(1944)年に豊成飛行場が設置されるなど、戦時下の影響も受けています。
 昭和29(1954)年、源村等と合併し、東金市が誕生します。初代市長には、両総用水の整備に尽力した能勢剛が選ばれます。
 その後も様々な発展をして、現在に至ります。