磯谷氏

 

(いそがいし)

【古代・中世】

中条氏が地頭として支配する高橋荘において、代官として現地の管理に当たっていた一族。高橋荘は内部が北方、東方、西方に分かれ、それぞれに中条氏の支配を執行する公文所が置かれていたが、磯谷氏はそのうちの北方に属する亀頸郷(亀首町)を拠点として中条氏に仕えた被官である。一族の中には管領と呼ばれる者もおり、それが中条氏のもとで高橋荘全体を支配する政所の指揮、運営にあたる立場であったと考えられる。すなわち高橋荘全体を統括する代官であろう。そのため中条氏の当主が、秀長や長秀のように幕府の有力者として在京する期間が長いと、磯谷氏の役割も大きくなった。秀長のもとでは、磯谷四郎左衛門入道道性(1349年より以前)、磯谷左衛門入道(1345年)、磯谷次郎左衛門入道定喜(1349年)、磯谷左衛門尉遠重(1354年)などの名前が史料にあらわれ、そのあとも磯谷新左衛門(1364年)、磯谷重義(1367年)などが見出せる。最初の磯谷左衛門入道の場合、荘内にある猿投社の造営の担当者とされた平内大夫入道善阿が、在京中の秀長から必要な用木伐採の許可を得たとき、その旨が秀長から高橋荘の磯谷氏のもとに伝達されている。荘内での善阿の活動には、磯谷氏が秀長からの許可について了解していることが必要だった。ここから磯谷氏が、高橋荘では秀長の代官として、善阿の行動を統括する立場にあったことがわかる。磯谷氏の系譜関係は、時期的にみて前記の人物たちを道性-定喜-遠重-重義という順で代替わりしていたと想定することも可能であるが、確証は得られない。ただ、この一族が数代にわたって高橋荘での中条氏の代官をつとめていたことは認めてよいであろう。中条秀長の在京での活躍も、こうした磯谷氏の存在に支えられるところが大きかった。しかし、室町時代には史料から存在が見出せなくなり、次第に衰退していったとも考えられる。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻308ページ

→ 善阿高橋荘中条長秀中条秀長