得光氏

 

(とくみつし)

【古代・中世】

高橋荘の有力者。苗字の地は、荘内の矢作川東岸部分である東方の得光名であろう。現存の史料から知られるのは、文和3(1354)年に中条秀長から「得光左衛門入道良誉」が北方の加納郷内の土地を与えられたこと。永和4(1378)年に「得光殿」が猿投社の塔料所の作人を、猿投社の意向に反して東方出身の平内入道に交替させていたこと。さらに15世紀後半の頃、「得光筑後守」が猿投社への年貢納入に関わっていると中条常周が述べていること。以上の3点が知られている。最後の事例では、高橋荘の現地支配が中条氏被官である三宅氏の掌握するところとなり、その一翼として得光氏が活動していたことがうかがえる。おそらく、得光氏は中条氏に仕えながら、次第に東方の外にも勢力を広げ、高橋荘現地での実権を握っていったものであろう。ただ、そのあとの足跡については不詳である。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻316ページ

→ 猿投社(猿投神社)高橋荘中条秀長