津山藩のトピックス

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No 元号年 西暦年 事項文
1 延宝9年/天和元年6月26日 1681 越後高田藩主松平光長、家中騒動(越後騒動)を理由に領地召上げ・松平隠岐守(伊予松山藩主松平定直)へ御預け 【関連画像】:E2-1-1(画像3
2 延宝9年/天和元年7月1日 1681 光長、江戸を発駕し伊予松山へ向かう 【関連画像】:E2-1-1(画像5
3 延宝9年/天和元年8月1日 1681 松山に到着、松山城三ノ丸の屋敷に入居 【関連画像】:E2-1-1(画像6
4 天和2年4月5日 1682 松山城北郭の新居に移転 【関連画像】:E2-1-1(画像17
5 天和4年/貞享元年11月1日 1684 光長、定直より赦免の奉書を受領1
6 天和4年/貞享元年11月25日 1684 光長、松山を発駕、江戸へ向かう1
7 天和4年/貞享元年12月15日 1684 光長、江戸に到着1
8 貞享4年12月15日 1687 光長、江戸の柳原屋敷に到着、一門の出迎えを受ける 【関連画像】:E2-1-2(画像3
9 貞享4年12月27日 1687 綱国も赦免 【関連画像】:E2-1-2(画像8
10 元禄元年2月14日 1688 綱国、江戸に到着 【関連画像】:E2-1-2(画像20
11 元禄7年12月18日 1694 光長嫡子源之助、左衛門督に任官 【関連画像】:E2-2-4(画像130
12 元禄7年12月23日 1694 源之助、元服して長矩と名乗る 【関連画像】:E2-2-4(画像145
13 元禄11年1月14日 1698 長矩、美作津山城と領地10万石を拝領 【関連画像】:E2-1-9(画像12) E2-1-10(画像22
14 元禄11年2月25日 1698 津山町奉行・使番・郡代・勘定奉行・代官・勘者に任命された者に誓紙提出を指示 【関連画像】:E2-1-10(画像60
15 元禄11年5月25日 1698 松平家、津山城受取…江戸屋敷では御用所で家中に吸物下賜 【関連画像】:E2-1-10(画像117
16 元禄11年5月30日 1698 城地受取完了を報ずる使者、江戸屋敷に到着 【関連画像】:E2-1-10(画像121
17 元禄11年6月1日 1698 城地受取完了につき長矩は老中邸を回礼 【関連画像】:E2-1-10(画像121
18 元禄11年9月6日 1698 数寄屋橋外より出火(勅額火事)、柳原屋敷も焼失 【関連画像】:E2-1-11(画像79
19 元禄11年9月27日 1698 鍛冶橋門内で新たに屋敷を拝領 【関連画像】:E2-1-11(画像109
20 元禄11年10月27日 1698 綱国、津山へ向けて発駕 【関連画像】:E2-1-11(画像146
21 元禄11年11月22日 1698 15日に綱国が津山に到着したことを報ずる飛脚、江戸屋敷に到着 【関連画像】:E2-1-11(画像178
22 元禄12年12月25日 1699 長矩、左近衛権少将に任官 【関連画像】:E2-1-13(画像210
23 元禄15年12月15日 1702 赤穂浪士、吉良邸に討ち入り 【関連画像】:E2-1-21(画像88
24 元禄162月4日 1703 赤穂浪士、切腹 【関連画像】:E2-1-22(画像14
25 宝永2年11月15日 1705 鍛冶橋屋敷類焼1
26 宝永4年11月17日 1707 元高田藩主・越後守光長、逝去 【関連画像】:E2-1-29(画像142
27 正徳6年1月1日 1716 鍛冶橋屋敷類焼 【関連画像】:E2-1-43(画像3
28 享保2年1月22日 1717 鍛冶橋屋敷類焼 【関連画像】:E2-1-45(画像16
29 享保5年4月14日 1720 絵師・狩野洞学を召抱え 【関連画像】:E2-1-51(画像101
30 享保6年2月13日 1721 藩主・越後守宣富、2月7日に津山で逝去 【関連画像】:E2-2-15(画像37
31 享保6年3月26日 1721 前藩主・宣富の嫡子・浅五郎、家督相続 【関連画像】:E2-2-15(画像74
32 享保11年11月11日 1726 藩主・浅五郎、逝去 【関連画像】:E2-1-62(画像117
33 享保11年11月18日 1726 前藩主・浅五郎の養子・又三郎(後の長熈)に5万石で家督相続(領知半減) 【関連画像】:E2-1-62(画像128
34 享保16年4月15日 1731 桜田中屋敷類焼 【関連画像】:E2-1-69(画像78
35 享保20年3月15日 1735 更山(もと三河守綱国)、3月5日に津山で逝去 【関連画像】:E2-2-18(画像76
36 享保20年10月13日 1735 藩主・越後守長熈、逝去 【関連画像】:E2-2-19(画像154
37 享保20年12月2日 1735 前藩主・長熈の養子・庄次郎(後の長孝)、家督相続 【関連画像】:E2-2-19(画像209
38 宝暦7年11月19日 1757 高田屋敷類焼 【関連画像】:E2-1-120(画像93
39 宝暦8年7月3日 1758 勝手向き立直しのため佐々木三郎右衛門を登用する旨、家中に申渡し(宝暦の藩政改革開始) 【関連画像】:E2-1-122(画像6
40 宝暦12年閏4月4日 1762 主・越後守長孝、逝去 【関連画像】:E2-1-129(画像113
41 宝暦12年5月23日 1762 前藩主・長孝の嫡子・光丸(後の康哉)、家督相続 【関連画像】:E2-1-129(画像162
42 明和8年8月20日 1771 藩主・康哉、祖霊礼拝の後、自ら人事異動を発令、勝手向き引締めを通達(明和の新政開始) 【関連画像】:E2-1-144(画像211
43 明和9年2月29日 1772 鍛冶橋屋敷類焼 【関連画像】:E2-1-145(画像46
44 寛政5年6月8日 1793 藩医・宇田川玄随に著述の手当として金15両下賜 【関連画像】:E2-2-32(画像300
45 寛政6年5月26日 1794 絵師・北尾三二(後の鍬形蕙斎)を召抱え 【関連画像】:E2-2-34(画像288
46 寛政6年8月26日 1794 藩主・越後守康哉、逝去 【関連画像】:E2-2-35(画像154
47 寛政6年10月13日 1794 前藩主・康哉の嫡子・仙千代(後の康乂)、家督相続 【関連画像】:E2-2-35(画像319
48 文化2年7月20日 1805 藩主・越後守康乂、逝去 【関連画像】:E2-2-57(画像76
49 文化2年閏8月6日 1805 藩主・康乂の養嗣子(実弟)・慎三郎(後の斉孝)、家督相続 【関連画像】:E2-2-57(画像216
50 文化3年3月4日 1806 鍛冶橋屋敷類焼 【関連画像】:E2-2-58(画像154
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