②歴史の道

鶴ヶ島市には、日光街道や鎌倉街道など古くからの道があります。わずかな面影を残し、姿を消してしまった「歴史の道」を紹介します。


●日光街道
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この街道は、江戸時代に八王子にいた千人同心が日光東照宮の警備を勤めるために往来した道で、日光脇往還とも呼ばれています。鶴ヶ島市、川越市、日高市にまたがって続く杉並木(点線表示部分)は、川越藩主松平伊豆守によって植栽されたと言われています。


●鎌倉街道上道(かみつみち)
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鎌倉に政治の中心が移り諸国から鎌倉に通じる要路は、軍政上きわめて重要な意味を持っていました。現在の日高市駒寺野新田から鶴ヶ島市町屋、坂戸市森戸へと続き、かつての道は掘割の形となっています。


●川越街道


一般的に「川越街道」と言うと、江戸から川越城下までの街道を指しますが、川越と結ぶ地方街道も、明治時代以降「川越街道」と呼ばれるようになりました。その面影は、「才道木日光街道道しるべ」や脚折、三ッ木地内を通る市道439号線の並木に見ることができます。


●飯能街道


鶴ヶ島西中学校の東側にわずかな面影を残す道です。かつては浅羽村から高倉村と中新田村の間を抜け、駒寺野新田、飯能へと至る、鶴ヶ島を横切る道でした。


●鉄砲道


江戸時代に、夜間竹槍の先に提灯を付けて立て見通し、測量をして作った道と語り継がれる道です。下新田、中新田、上新田を一直線に貫いています。


●河岸街道


江戸時代に上新田村、町屋村、中新田村などの人たちが、川越(河岸)に行くために通った道です。


●市道(いちみち)


膝折から藤金を経て太田ヶ谷に入り、明治時代まで重要な暮らしの道としての役割を果たしていました。坂戸市粟生田の七日市場に通う道であったと考えられています。


●江戸街道


かつての浅羽村の橋場より下新田村を通り抜けて膝折村北口に通じた道です。昔殿様が通ったと伝えられています。