近世(江戸時代)

 天正18年(1590)江戸に入った徳川家康は、関東の領国経営を進めるとともに関ヶ原の戦い(1600)、大阪冬・夏の陣(1614~15)を経て天下統一しました。江戸幕府による村切によって、市域の村々も徐々に確定していきました。近世初期の開発で町屋村が成立し、幕府領となりました。広谷村からは五味ケ谷村が分村し、慶安元年(1648)にはさらに広谷村は上・下二村に分村したとあります。またこの頃、高倉村から上新田、中新田、下新田が分かれたと思われます。初めは広谷村の一部や町屋村をのぞき市域の村は川越藩領でした。川越藩の村では慶安元年藩主松平信綱(はんしゅまつだいらのぶつな)によって総検地が行われました。脚折、太田ケ谷、三ツ木、高倉村の検地帳が残っています。村域の確定にともない、村の間でそれまであいまいだった入会地(いりあいち)をめぐる争いが発生したと思われ、延宝6年(1678)には隣村入会野訴訟絵図(いりあいのそしょうえず)が作成されています。元禄10年(1697)頃、市域の村の多くは川越藩領を離れ幕府領あるいは旗本領となりました。

隣村入会野訴訟絵図(写し)

 18世紀に入ると、幕府の財政難から武蔵野の新田開発が進められ、押立村(府中市)の農民で幕府代官にとりたてられた川崎平右衛門の指導の元に、市域の村々でも次々と新田が開かれていきました。町屋新田、脚折村新田藤金新田、三ッ木新田などの外に、青木村(坂戸市)の喜平次(きへいじ)によって新たに大塚野新田が開かれ、いずれも幕府領となりました。最近の発掘調査で太田ヶ谷の新田開発や高倉村の様子が解ってきました。

川崎平右衛門定孝肖像

 19世紀に入り幕藩体制に動揺がみえ始めたころ、博徒(ばくと)や浪人の徘徊によって、関東地方のむらの治安が極端に悪化しました。関東地方の支配は、幕府領、大名領、旗本領、寺社領が複雑にいりくんでいて、統一的な取り締まりをはかるのが困難でした。そこで、幕府は文化2年(1805)に関東取締出役(とりしまりしゅつやく)を設置し、天領、私領、寺社領の別なく廻村できることとしました。一方文政年間(1818~30)には支配の別なく近隣の村をあわせて小組合を作り、さらに約40力村をまとめて大組合村を設けました。市域の村々は、石井村(坂戸市)を寄場(よせば)とする組合にまとめられました。