隣村入会野訴訟絵図(写し)
18世紀に入ると、幕府の財政難から武蔵野の新田開発が進められ、押立村(府中市)の農民で幕府代官にとりたてられた川崎平右衛門の指導の元に、市域の村々でも次々と新田が開かれていきました。町屋新田、脚折村新田藤金新田、三ッ木新田などの外に、青木村(坂戸市)の喜平次(きへいじ)によって新たに大塚野新田が開かれ、いずれも幕府領となりました。最近の発掘調査で太田ヶ谷の新田開発や高倉村の様子が解ってきました。
川崎平右衛門定孝肖像
19世紀に入り幕藩体制に動揺がみえ始めたころ、博徒(ばくと)や浪人の徘徊によって、関東地方のむらの治安が極端に悪化しました。関東地方の支配は、幕府領、大名領、旗本領、寺社領が複雑にいりくんでいて、統一的な取り締まりをはかるのが困難でした。そこで、幕府は文化2年(1805)に関東取締出役(とりしまりしゅつやく)を設置し、天領、私領、寺社領の別なく廻村できることとしました。一方文政年間(1818~30)には支配の別なく近隣の村をあわせて小組合を作り、さらに約40力村をまとめて大組合村を設けました。市域の村々は、石井村(坂戸市)を寄場(よせば)とする組合にまとめられました。