現代(昭和20年~)

 戦後もしばらくの間国民生活に大きな影響を与えたのが衣食住の欠乏でした。農村地帯である鶴ヶ島は、食糧の供出を求められたのでした。昭和21には陸軍坂戸飛行場の跡地に、翌22年現在の鶴ケ丘地区で開拓が開始されました。農業が主体であった昭和30年代前半から、後半以降は工場の誘致や宅地の開発により住宅地や商店街が形成されていきました。昭和40年には村から県下40番目の町となりました。その後の人口増加は目を見張るものがあり、とりわけ昭和50年に2万人を超えた人口は、10年後の60年には2倍以上の4万9千人あまりとなりました。この間の5年間は増加率で県内第1位となり、全国でも有数の人口増加都市となりました。これは、新熊谷・入間バイパス(現在の国道407号線)が建設され、昭和50年に関越自動車道・川越~東松山間が開通し、鶴ヶ島インターチェンジが設置されたこと、また良好な市街地の形成を目指して富士見、鶴ヶ島北部、浅羽野、川越鶴ヶ島地区で土地区画整理事業が実施されたことなどによるものです。人口の急増にともない、小中学校の建設が急務となり、昭和50年代以降相次いで開校しました。都心から45キロメートル圏内という立地条件と交通道路網の整備により飛躍した鶴ヶ島は、平成3年9月市制を施行しました。

国道407号線(バイパス) 昭和48年


国道407号線(バイパス) 現在