半年以上に及ぶ長陣のためであろうか、一一月五日夜の門司表の戦いで思わぬ敗北を喫した豊後勢は、毛利方の水軍が仲津郡の蓑島、今井津や元永など津々浦々で待ち伏せしているとの情報が流れたため、吉岡長増、臼杵鑑速の二家老に従って宇佐郡衆まで豊後国日田へ走った。
国東衆を率いる田原親宏(たはらちかひろ)は、日田へ敗走した吉岡長増、臼杵鑑速の本隊や宇佐衆とは別に、京都郡黒田原(くろだばる)、仲津郡天生田、同郡国分寺原(こくぶんじばる)を通って国東(くにさき)を目指したため、途中で毛利衆や小早川配下野島(のしま)、来島(くるしま)、浦兵部(うらひょうぶ)ら水軍に追撃(ついげき)され大痛手を受けた。田原親宏自身も数カ所の刀傷を受けた。