毛利勢、松山城に入る

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 市川経好(つねよし)、児玉就忠(なりただ)から、杉右京進親直は一二月一三日の犀川町城井表の合戦での働きを評されている。城井表の出来事は毛利方の掃討作戦の一環であろうか。これによって、永禄四年(一五六一)一一月一九日、京都郡苅田の松山城へ毛利隆元と小早川隆景が入城し、企救郡の権益死守を計った。京都郡以東はほぼ豊後勢の支配下に入った。なおも京都郡から上毛郡までの地域では毛利氏の影響力を排除できなかった。