永禄五年(一五六二)、大友宗麟は再度大軍を豊前国に繰り出した。豊前国の失地回復と企救郡門司城の攻略が目的であった。門司城へは豊後勢の戸次鑑連(へつぎあきつら)、吉弘鑑理が攻撃をかけ、冷泉元豊(れいぜいもととよ)以下の武将を討ち取ったものの、戦いは散発に終わり、攻防の中心は松山城へ移った。
大内時代豊前国守護代杉氏の本城といわれている松山城は、京都郡苅田に所在し、東と北と南を周防灘に囲まれるなど自然地形を利用した大規模城郭で、難攻不落の戦略的な城である。
永禄五年五月一三日から翌年正月二七日までの間八回以上も、大友勢は京都郡松山城を攻めている。この頃大友氏から離反し毛利氏に着いた杉因幡守隆哉と杉重輔の子松千代が在城していた。毛利元就は天野隆重(あまのたかしげ)を城将として送り込み、永禄六年(一五六三)春には福原貞俊(ふくはらさだとし)の松山城着陣を予定するなど、体制の強化を計った。