永禄五年と思われる七月一五日付で、毛利元就・毛利隆元の連名で市川経好、財満忠久(ざいまんただひさ)、坂元祐へ宛てられた書状に「つめたて候うての思案者、高橋此方一味候」と筑前国宝満城督(ほうまんじょうとく)高橋鑑種が支配下に入ることの申し入れがあったことを伝え、それによって生じる問題を整理し、返事をよこすように命じている。
晩年を豊前国小倉城で過ごすことになる高橋鑑種は、大友一族一万田氏の生まれで、大友義鑑の時、大蔵一族の筑後国高橋家を継ぎ、大友宗麟(義鎮)の弟大内義長の付家老として山口に入った。義長の死後、肥後国菊池義武討伐や小原鑑元(おはらあきもと)討伐に成功したことを認められ、大友宗麟の信頼が厚く筑前国宝満城督を命じられた。
鑑種がなぜ裏切ったかは、はっきりした理由はわからないが、大友宗麟のやり方に対する不信感を抱いたとか、鑑種の兄(一万田鑑相(いちまんだあきすけ))が謀反の疑いをかけられ親族(服部、宗像)とともに討伐されたことや、宗麟の一万田鑑相の美貌の妻への横恋慕(よこれんぼ)に原因していたことがささやかれている。最近では、鑑種が毛利氏に筑前国六郡の支配権を要求していたことが関係すると考える説もある。