幕府の和睦調停

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 毛利・大友両家の北部九州をめぐる争いは熾烈を極めた。門司城合戦の敗北、毛利勢の松山城駐屯や佐伯惟教(さえきこれのり)、小原鑑元の謀反により府内から丹生島城(にうじまじょう)への移転など必ずしも、大友宗麟に有利に運んだとは言えないなか、永禄七年(一五六四)七月、将軍足利義輝が派遣した聖護院道増(しょうごいんどうぞう)、久我通言らによる調停作業がようやく実を結び、大友氏と毛利氏の講和にこぎつけ、一旦は静謐に帰した。調停の内容はおおむね次のとおりである。
 ①規矩郡と門司城を毛利が支配する。
 ②毛利は松山城と香春岳城を破却し大友方に渡す。
 ③高橋鑑種をはじめとする牢人は大友の家臣とし、所領を没収したり、誅伐したりはしない。
 ④小早川秀包(こばやかわひでかね)に宗麟の娘を娶わせる。

 豊前国のうち規矩郡は毛利支配、その他の豊前国は大友支配とする約束がされた。しかし、松山城、田川郡香春岳城(かわらだけじょう)の引渡しが遅れたことや毛利氏が豊筑の国人へひそかに調略(ちょうりゃく)を続けていたことなどが要因となって、この和平は長くは続かなかった。また、豊筑の国人衆(こくじんしゅう)も毛利氏との関係を強く望んだ。