長野筑後守の取り扱いについて

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 永禄七年(一五六四)、大友氏と毛利氏の和平協定で、毛利氏が豊筑から手を引き、出雲国の尼子義久(あまこよしひさ)の打倒に力を注いでいる間、毛利氏の息のかかった豊筑の国人たちは大友氏に降礼を取って、隠忍自重(いんにんじちょう)していた。永禄八年(一五六五)になると各地で対立の火は燃え始めた。
 毛利方から大友氏に出された誓約に「豊前国衆抱え持ちの城々の明け渡しを命じた」とある。しかし、企救郡長野氏の城砦はこの対象に入らなかった。その理由は、門司城が毛利方である限り、門司城督仁保隆慰が企救郡代官を兼ねているので、企救郡内の長野氏は毛利方の支配下に置かれていたと考えられる。このため企救郡長野氏は、大友氏の長野城明け渡し要求に応じないと見てか、それとも尼子氏の要請によるものか、ともかく長野成敗(せいばい)と称して大友宗麟は田原親宏、田原親賢を送り込み、企救郡(小倉南区)の長野筑後守の里城(館)を六月二二日に攻め、六月二六日と八月一三日の両日には企救郡(小倉南区)の長野城(詰の城)を攻めて、長野祐盛(助守)(ながのすけもり)を配下とした。