毛利、門司城を死守

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 これに対して、永禄八年五月二二日付けで、尼子攻めに勢力を集中していた毛利元就は赤間関在番の内藤就藤に対して、「長野退治に大友勢が攻撃してきた、また、麻生その他についても心配である、この非常時に長門国赤間関(下関市)のことが第一で、そのためには門司城を死守することが大切である」と述べている。
 長野氏をめぐる攻防は、永禄一一年(一五六八)に始まる毛利氏と大友氏の全面対決まで持ち越される。