仁保隆慰、宮尾城から敗走

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 永禄一一年五月三日に長野筑後守江量が殺害された。これは宇佐の到津氏の配下の者の仕業である。また、毛利勢(門司城督仁保隆慰)は、三岳城と等覚寺城(苅田町)の通路に当たる小倉南区西大野にある宮尾城(稗畑山城・宮山城)を攻め取った。長野勢は、筑後守を討ち取られたけれど、長野兵部左京は三岳城を守り、等覚寺城の長野三河守助守は健在である。長野氏応援の豊後勢は五月二〇日に宮尾城を奪い返し、毛利方を五〇余名討ち取った。攻めきれなかった仁保隆慰は宮尾城から門司城に逃げ帰った。その後も引き続き豊後衆は築城郡別府に宿陣している。これに連動して毛利方杉因幡守、西郷両人が急造した京都郡と仲津郡境の大坂山の城も攻落された。大友方の勝利である。