立花城争奪戦

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 毛利方は三岳城の長野氏を攻略後、麻生氏の筑前国遠賀郡山鹿(芦屋町)を経由して宗像郡を通り、筑前国立花城へと軍を進めた。
 永禄一一年(一五六八)一一月、大友氏と和睦していた秋月種実が、毛利氏の調略によって寝返り、千手隆惟(せんじゅたかこれ)を殺害した。毛利勢は加摩郡馬見岳城の修築を佐藤元実に命じるなど守備を固め、宝満城督高橋鑑種と連絡を取り、上筑後地方を調略し、御井(みい)郡(久留米市)の高良山城に出馬していた大友宗麟の後方を遮断(しゃだん)しようとした。
 永禄一一年九月、戦局は筑前国糟屋郡立花城(福岡市、新宮町)に移る。毛利方資料によると、毛利方五万と大友方一二万の兵員が睨(にら)み合ったという。中国、九州各地から空前の大軍が立花城を舞台に対峙した(江田文書)。立花城は、一旦は毛利方に落ちた。