永禄一二年、毛利勢は豊筑からの撤兵とともに松山城も放棄(ほうき)した。門司城は依然として城番(じょうばん)を置き企救郡を支配した。したがって、大友方に降った高橋鑑種を小倉に移すことは、企救郡を両家の緩衝地帯(かんしょうちたい)とする合意が成立していたと見ることもできる。
その後、高橋鑑種は大友氏より段銭の徴収を命じられている傍らで、長門国の内藤隆春(ないとうたかはる)と親しく情報の交換をするなど毛利方として行動している。
この処置は、毛利元就の最大の政治問題になりつつあった対織田信長戦線、鳥取・岡山方面の経営に集中することを可能にした。また、大友宗麟にとっては比較的平穏な北部九州支配をつづけることを可能にした。