豊前国各地で激戦

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 永禄一二年の焦点は筑前国立花城の争奪戦である。この頃、豊前国内の状況を宇佐市到津家に残る某覚書案には次のように記している。
 三月一五日に規矩郡小倉津(小倉北区)で衝突があり、大友方田原近江守親賢配下の竹下源七、田北の配下の負傷者三名が届けられている。同日別府(築城郡)に帰陣。閏五月二一日には上毛郡内で放火があり、翌二二日は中津川(山国川の河口)に警固船一〇〇艘ばかりを出した。くつ河、小今井、中津川、蠣瀬浜(かきせはま)の広い地域で焼き討ちにあった。同日、田原近江守親賢は宇佐郡彼津(長洲か)で敵船と対陣したが、田原方に船がなく残念である。時枝配下の塊木行部を上毛郡広津で討ち取っている。六月二八日に毛利勢が立て籠もった京都郡岩熊(いわくま)村(勝山町)を長野助守が攻落した。永禄一二年一〇月一五日、毛利勢は長年豊前支配の要としてきた松山城を退去した。
 勝利を収めた宗麟は、仲津郡、京都郡などの所領を功績があった国人たちに恩賞(おんしょう)として与えている。一例をあげておく。桜井紹介(さくらいしょうすけ)に仲津郡安留(ママ)と同小犬丸を預けたことを、大友加判衆が仲津郡木井馬場に本拠を置いた城井左馬助に披露(ひろう)している。