解題・説明
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この書簡は、新選組結成時の様子を伝える書簡で、浪士組を率いた清川八郎らが、江戸へ帰り、京に残留した芹澤鴨と近藤勇が、同志の隊長となった。同志の内失策をしたものに天誅を加え、殿内義雄、家里次郎を除いたことを伝えている。また、江戸に帰った清川八郎が江戸で暗殺されたことを知り、京都で清川他、五名に誅戮を加える予定でいたが、機会がなく誅戮を加えることができなかったことを伝えている。このことは、近藤勇は、いざというときに、幕府から清川一派の動向をおさえる役目を負わされていたことを示すもので、新選組結成を考える上で重要な書簡である。萩原多賀次郎が最初に書簡を文久三年六月十七日夕方に受け取ると、この書簡を写しとり、本書簡は、舟板横丁の近藤周斎先生に見せ、控は江戸の人たちに見せた。書簡は、江戸から多摩郡上石原村の宮川音五郎に回達され、最後に小島鹿之助に届いた。小島鹿之助の父『梧山堂雑書』には、萩原糺から九月五日に届いたことが記されている。最初に江戸に届いてから八十七日かかっている。そのため小島家に残された。この書簡は四メートル二十二センチあり、現在残されている近藤勇の書簡の中で最も長文である。なお、書簡の発信日の記載はないが、文面から推測すると、六月八日に発信され、至急便で届いたと思われる。
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