解題・説明
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書簡には日付がないが、国立市谷保の本田家の書留帳にこの書簡と封筒が記されている。また、近藤勇は同文の書簡を佐藤彦五郎に送っている。このことから、書簡の発信日は六月十五日である。佐藤の書簡には、「当月八日大嶋郡と申すところえ御討ち入り相成」とあり、また、『徳川慶喜公伝3』に「戦争は七日に幕府の軍艦が防州大島を砲撃せしより始まる」とあり慶応二年であることがわかる。 小島鹿之助は、しばしば近藤勇に書簡で処世訓について意見を述べている。近藤は、幕臣について、密に国家の興廃を知らず無用に高禄貪りといい、また儒者について、「土方歳三は、当方の儒生は国家無用の者」と申しており、国家の行く末を憂いている。管仲、鮑叔、管子、諸葛武侯(諸葛孔明)らの名を上げて、文武衆人に卓越致していても当今、事務危急興廃に備え対処できる人でなくてはならないと述べている。
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