解題・説明
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本書簡は佐藤彦五郎が宮川音五郎に宛てたものと考えられる。「橋本日記」(小島資料館蔵)元治元年の八月十二日の条に、「日野源之助来、明日京地近藤方へ日野より飛脚遣候間投簡致候様申来候間、小島叔父(鹿之助)并びに石坂(又二郎)と三人名前ニテ状遣候」とあり。「小野路へも早速遣し候処」とは、このことを指している。また、小島鹿之助の父角左衛門の「聴書」には、元治元年八月十二日の条に、「日野宿佐藤源三郎殿送人古屋聟来、京都飛脚之買、近藤勇、土方歳蔵、山南敬助、小北(沖田)惣二郎、井上源三郎名當(なあて)、鹿之助、道助。又二郎三人名前ニテ書面認遣也」とある。 佐藤彦五郎や、小島鹿之助らは、親戚、知人らあちこちにつてを求めて情報を収集したが、京の詳しい情報は得られなかった。そこで、直接、新選組に手紙を送って真偽の程を確かめようとした。このときの書簡で、佐藤は宮川へも手紙を出して、一緒に京都に送るためにこの手紙を書いたものと考えられる。 「新選組の諷評甚夕宜しからず」とは、「聞きがき新選組」佐藤豆著に佐藤彦五郎が元治元年九月二十五日に出した近藤勇宛書簡に、上洛した島崎勇三郎の見聞によると、新選組隊士の粗暴さが市中の話題となっていることを、伝えており、近藤に隊士の素行の監督を注意している。このことを意味していると思われる。以上の内容から、禁門の変のあった元治元年の書簡と推定する。
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