解題・説明
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初め徳川家康に仕え、のちその子紀州藩主頼宣に仕えた武将落合左平次道次(?~一六二〇)が、合戦の時に自らの存在を顕示するため背中にくくりつけた指物。半裸の磔の姿で描かれている人物は鳥居強右衛門といい、天正三年(一五七五)五月、長篠の戦いで家康の将として長篠城を守った奥平信昌の家臣である。強右衛門は、武田勝頼の軍勢に包囲された長篠城から、岡崎にいた織田信長・家康に援軍を要請する使者として派遣され、その帰路武田軍に捕らえられた。その際、敵をあざむいて援軍が到着することを味方に伝え、長篠城の危急を救おうとしたため、同月十六日、磔にされたと伝えられる。落合道次は長篠の戦いに従軍し、強右衛門の磔の姿を見たという。背旗を納めていた箱に「落合左平次道次背旗 鳥井強右衛門勝高逆磔之図」と墨書されているとおり、この指物は上下逆さまの逆磔の姿で使用されたものであるという学説が提起され、注目を集めた。しかし、近年史料編纂所が落合道次の末裔の家に現在も伝来している同様の図柄の旗(道次の代々の子孫たちがそれぞれ制作した)や、同家に残されている子孫が執筆した記録(『由緒元帳』)を調査した結果、子孫の旗は逆さでなく普通に立った状態で描かれていること、また表裏描かれている旗があったこと、道次の旗に矢・鉄炮・鑓疵があると記録されていたことがわかった。掛軸装にされていた背旗の表具に傷みが目立ったこともあり、この調査をきっかけに、ADEACの協力を得て、掛軸装を解体して修補を実施した。その結果、子孫の旗や文献史料にあったとおり、裏にも同様の図柄が描かれていることが判明した。このため掛軸装に復することはせず、絹布の欠失箇所に補修をおこない、裏面が明瞭に観察できるよう補強し、木枠に張り込むかたちで修補された。また修補に先だって、東京国立文化財研究所保存修復センターの協力を得て、背旗にポリライト(波長可変型光源装置)を当て観察をおこなった結果、人物像の左足元にある血しぶきのような形の滲みの部分に蛍光反応があり、血痕の可能性が高いと判断された。旧来目に触れていた面(表)と、修補の結果出現した面(裏)には、鏡像関係になっていることや破損状態とは別に、明瞭な違いが一点だけ確認される。それは、磔にされている人物の首に巻かれた黒い輪のすぐ下(胸骨にあたる部分)に引かれた黒い横線の有無である。裏面には横線が描かれていない。(執筆:金子拓(史料編纂所 准教授))
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