拝島駅北口のほぼ正面を流れる玉川上水には、戦前の陸軍当時からの「横田基地引込線」(1937年敷設)と「平和橋」(1972年架橋)が並んでいます。「拝島分水取水口」は平和橋の南詰(右岸)にあります。
玉川上水には多くの分水がありましたが、拝島分水は江戸時代にはもっとも上流にあった分水です。また、数少ない現役分水路の一つでもあります。
現在の分水路は拝島駅構内の線路下をくぐり、開渠(地上から見える水路)と暗渠(見えない水路)を繰り返しながら旧日光街道(国道16号)に沿うように旧拝島宿に流れ、田中堀を経て最後は昭和用水に合流します。総延長は約3㎞に及び、飲み水や水車動力、田用水に利用された歴史があります。
拝島分水の成立年代は、江戸幕府の公式記録である『上水記』(1791年編纂)にも明確な記述がなく、『新編武蔵風土記稿』(1828年完成)を根拠とする元文5年(1740)としていました。しかし、①正徳末(1715年)頃に描かれた「上水図」に拝島村分水があること、②初期の他分水と同じく呑水料(使用料)が課せられていたこと、③『東京市史稿上水編第一』(1919年発行)でも「明暦中ノ分水」に掲載されていることから、拝島分水は「明暦年間(1655~1658)頃」の成立と考えられています。