拝島宿は、八王子に駐屯していた千人同心[注1]が日光勤番に赴く際に往還した「日光街道」の宿駅として、江戸時代初頭に開設されました。多摩川筏流しの中継地ともなった拝島宿は、八王子と箱根ヶ崎(現瑞穂町)の間に位置する宿場で、住民は農業に従事するかたわら宿場業務や様々な商売に携わっていました。景観は今日では大きく様変わりしましたが、「間口が狭く・奥行きが長い」、宿場特有の地割はほとんど変わりません。
拝島宿は、西方から上宿(上町=加美町)、中宿(中町=奈賀町)、下宿(下町=志茂町)の三町に分けられ、現在でも日吉神社の祭礼などは、この村組が中心となって機能しています。
拝島宿の「日光街道」(現奥多摩街道=都道)は、西端(下記の地形図のA)と東端(B)で鉤形に屈曲しています。宿場によく見られるもので、西端では「大曲り」と呼ばれています。東端の屈曲は多摩川の「拝島の渡し」に至りました。
なお、拝島宿での道幅は、明治9年(1876)頃の拝島村「字図」(昭島市現用「旧公図」)によると約12.5m。江戸時代も、そして今もほぼ同じです(拝島宿以西の市域日光街道の道幅は約3.6m)。
[注1] 千人同心 …… 八王子を本拠とする江戸幕府直属の郷土集団。年2回の日光東照宮火の番に従事。約280年間存続。
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明治42年(1909)頃の日光街道絵はがき(拝島分水と水車、ガス灯、家並みが見える。たましん地域文化財団所有)
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拝島宿の面影が残る地形図(1909年、1/2万「拝島」。約145%に拡大)上の写真と同時期の地形図。A~Bが旧拝島宿。日光街道の真ん中を流れる拝島分水、上の水車は宿のほぼ中央
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下宿(B地点)の地蔵。西を向き旧拝島宿を見つめている。上宿のA地点にも地蔵がある