資料説明
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中島城跡は、標高36mから43mの台地突端部に位置し、台地の北東及び南西に入り込む谷によってくびれた部分を城域の北端とし、台地の上から裾部にいたるまで全域に遺構が見られ、東西約500m、南北約400mで、県内中世の城としては規模の大きなものである。 城の形態は、高田川と逆川で外堀を形成し、大手門・水堀・土塁・腰曲輪・土壇等の遺構が認められる。大手門と西木戸以外はすべて60度近い急傾斜地となっており、自然の要害を生かした城である。また、何段もの三角土塁、幾重にも屈折した空堀などの工夫がなされ、本丸(御城)へ攻め入るまでには、難攻不落であったことがうかがえる。 中島城は、海上氏関係の遺跡・遺品・伝承等によると鎌倉時代からこの地方を治めていた千葉氏一族の海上宗家の居城と考えられ、天正18年(1590)に落城したと伝えられている城は、城郭の遺構が大規模に造られていることなどから、戦国時代の築城であると思われる。
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