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恵庭市教育委員会/カリンバ遺跡と恵庭市史料 DIGITAL ARCHIVE

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恵庭年代記 (江戸時代の恵庭を見た男たち)

江戸時代の恵庭を見た男たち イザリブト・イザリ・モイザリ・シママップなどの地名を持つ恵庭。,イザリの長 ヌカンランケ 一七九一年(寛政三)、最上徳内一行が東蝦夷地を探検しますが、そのときの記録,闇のなかイザリ(イザリブトか)に着いた一行は川の両側に千点のかがり火をたき野宿しますが、その明るさは白昼,景晋は、このときイザリブトに通行屋を建て、番人にリキヤカ、シュヒタの二人を雇うことに決めました。,イザリ・シママップの番屋には山田屋の番人が駐在していました。
恵庭年代記 (17世紀~1912年(年代記第1部))

場所(イザリブト・イチヤリ・伊茶利布登)があったことが知られています(イザリ場所は後にイザリ場所とモイザリ,それまでのイザリ・モイザリなどシコツ十五カ所(十六場所)の運上屋は改められ、ユウフツ会所が設けられ、シコツ,その名の通りイザリ川(漁川)・モイザリ川(茂漁川)は古くからサケの好漁場で、一八世紀末の寛政期にはイザリ,の東蝦夷地の直轄によってイザリ・モイザリが幕府領となったために漁を禁じられたことから起こりました。,開拓使は、場所制度を廃止し、全道を十一国八十六郡に分け、島松川を境に現在の恵庭市にあたるシママップ・イザリ・モイザリ
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