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恵庭市教育委員会/カリンバ遺跡と恵庭市史料 DIGITAL ARCHIVE

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恵庭年代記 (篤農と呼ばれた男)

篤農と呼ばれた男 「荊赫ノ荒蕪ヲ墾シ」 篤農とよばれた男 中山久蔵   明治に入り、,中山久蔵は、誰もが篤農として認め、尊敬された農民でした。,『農業篤志中山久蔵翁事績』によると、中山久蔵は、一八二八年(文政一一)河内国(今の大阪府)に生まれ、十代,中山久蔵は、米のほか、果樹や蓮根を試作したり、鯉の養殖や、山林の植林などもてがけ、まさに「篤農」として,◆76歳ころの中山久蔵 明治の初め、恵庭には誰が住んでいたか 中山久蔵に続き、恵庭にも移住者が
恵庭年代記 (17世紀~1912年(年代記第1部))

1871年(明治4年) 中山久蔵が島松沢に入植。,開拓者の入植が続く この年三月、中山久蔵(きゅうぞう)が千歳郡島松村(島松川右岸、現在の恵庭市島松沢,島松駅逓所は、一八八四(明治一七)に島松川対岸の中山久蔵宅に移るまで、この場所にありました。  ,ところが島松沢右岸に入植した中山久蔵は、この年約五〇坪の水田で一反(一〇a)あたりに換算して二石三斗(,しかし中山久蔵は、道南の大野村(当時)から、寒さに強い品種の「赤毛」を取り寄せ、苗代に風呂の湯を入れて
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