北海道式古墳の発見
昭和の初め、現在の江別市と恵庭市で驚く発見がありました。日本で律令体制による中央集権国家が生まれた奈良・平安時代の初頭、その支配が全くおよばない北海道に、本州との強い結びつきを物語る「古墳」が発見されたのです。柏木東遺跡とよばれている恵庭の北海道式古墳を発見したのは、当時恵庭小学校教諭の曽根原武保と研究者の後藤壽一でした。一九三二年(昭和七)、一四基の古墳が調査され、蕨手刀・刀・帯金具・須恵器などが見つかっています。また古墳の周辺からは、日本最初の鋳造貨幣「和同開珎」も発見されました。これらの出土物から、北海道式古墳が作られたのは、八世紀から九世紀前半にかけてと考えられます。
昭和の初め、現在の江別市と恵庭市で驚く発見がありました。日本で律令体制による中央集権国家が生まれた奈良・平安時代の初頭、その支配が全くおよばない北海道に、本州との強い結びつきを物語る「古墳」が発見されたのです。柏木東遺跡とよばれている恵庭の北海道式古墳を発見したのは、当時恵庭小学校教諭の曽根原武保と研究者の後藤壽一でした。一九三二年(昭和七)、一四基の古墳が調査され、蕨手刀・刀・帯金具・須恵器などが見つかっています。また古墳の周辺からは、日本最初の鋳造貨幣「和同開珎」も発見されました。これらの出土物から、北海道式古墳が作られたのは、八世紀から九世紀前半にかけてと考えられます。
恵庭の北海道式古墳と発見者の曽根原武保(左)/昭和初期 |
恵庭の北海道式古墳から出土した蕨手刀と帯金具(旭川市博物館) 蕨手刀は、柄がワラビに似ていることからこの名が付けられている |
土師器(擦文時代前期)/西島松3遺跡 | 須恵器<坏>(擦文時代前期/島松沢3遺跡) 恵庭市有形文化財 |
恵庭の北海道式古墳周辺で発見された日本最古の貨幣 |
ここに誰がいたのか
この北海道式古墳は、八世紀まで作られる東北地方北部の「末期古墳」と類似し、副葬品も似ています。当時の北海道は擦文文化とよばれる最後の土器文化の時代でしたが、彼らはこの擦文文化の一般的な姿とも異なっていました。いったい誰がここに葬られ、この地域にどのようなグループとして存在していたのでしょうか。研究者によって出されている説は、①石狩低地帯で富を集積し権力組織を生んだ北海道在住の支配者、②東北地方から移住してきたエミシの族長、③坂上田村麻呂の「征夷」に参加した兵士、④交易のために渡ってきた和人など。それはいまも謎に包まれています。
擦文文化とエミシ
この八世紀という時期は、北海道ではちょうど擦文文化が登場した時期です。東北地方では北侵する律令政府(天皇を中心とする中央の政権)と、彼らに属さないエミシ(勇者・武人を意昧するとされる)とよばれた東北地方の住民との矛盾が高まっていました。エミシは族長のもとに部族集団を形成し、交易で鉄などの生活必需品を手に入れることで力を蓄え、統一国家を作ろうとする律令政府との間で衝突と連合をくり返しました。七八〇年~八〇二年にかけてエミシと律令政府は二〇年に及ぶ「東北戦争」をくりひろげますが、坂上田村麻呂がエミシの総帥アテルイを下し戦争は終結します。北海道式古墳は、この時期とちょうど重なるのです。北海道の擦文文化は、この東北地方の情勢と深く関係しながら、進んでいきます。
平成9年6月下旬、カリンバ2遺跡の竪穴住居跡から出土した銅鋺(どうわん)(銅製の容器)。 北海道での出土例は極めて珍しく、交易か本州の有力者に関係するものとして研究者の注目を集めている |