明治二〇年代、恵庭に次々と学校が誕生した

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 一八八六年(明治一九)、小学校令によって尋常小学校四年の「義務教育」が法律で定められ、恵庭の本格的な開拓の時代が始まった明治二〇年代には、次々と小学校が誕生していきました。
 当時の学校では、ノートや鉛筆のかわりに石版・石筆が使われ、給食はなく、子どもたちは弁当持参で通いました。しかし冷水害で弁当を持参できない子どもも多く、松園小学校の天野校長のように、お腹をすかせた子どもたちに山のようなトウキビを学校に運んで食べさせるなどの例がたくさんありました。物質的には恵まれていなくとも、学ぶことや教えることに輝きがあった時代でした。
 
◆石版・石墨と明治34年発行の算数の教科書(恵庭市郷土資料館)

◆明治時代の卒業証書

恵庭小学校の前身、私立洞門小学校。恵庭最初の小学校
1887年(明治20年)
 それまで漁村・島松村の子どもたちは、一〇キロ離れた千歳村の千歳小学校への就学が義務づけられていました。そこで村の有力者が協議し、一八八七年(明治二〇)「私立洞門小学校」を漁村の大安寺境内に開設します。これは恵庭最初の小学校で、一八九八年(明治三一)には福住町の現在地に移り、公立恵庭尋常小学校として開校しました。

◆昭和初期の恵庭尋常小学校/昭和8年『三村名鑑録』より

南島松に私立松園尋常小学校
1889年(明治22年)
 漁川沿岸に入植した長州士族廻神美成(めぐりがみ よしなり)によって、この年、私立松園尋常小学校が開校します。「松園」の名は、幕末の思想家・教育者である長州藩の吉田松陰にちなんだものといわれています。同校は一八九九年(明治三二)公立松園尋常小学校となり、一九七一年(昭和四六)に学校統合によって松恵小学校となり閉校しました。一九〇七年(明治四〇)二代校長として赴任した天野伊三郎は、熱意と愛情の教育で慕われ、開拓記念公園に「天野先生之碑」が建てられています。

 
◆昭和初期の松園小学校/昭和8年『三村名鑑録』より

◆天野先生の碑と、建立した同窓生有志

私立島松尋常小学校。現在の島松小学校
1894年(明治27年)
 一八九三年(明治二六)、元士族の大阪与太郎が広島街道筋(現在の南一八号)に寺子屋式の「学校」を開きますが、大阪は日清戦争に出征し戦死します。それを前身として、翌年私立島松尋常小学校が開かれました。一八九八年(明治三一)には、現在地に公立島松尋常小学校として開校(校舎完成は前年) 。これが現在の島松小学校です。

◆昭和初期の島松尋常小学校/昭和8年『三村名鑑録』より

加越能開耕社と住民の寄付で、松鶴小学校
1901年(明治34年)
 一八九三年(明治二六)加越能開耕社が漁太に農場を聞き、小作農民が移住してきました。最初は説教所で寺子屋式の教室が開かれていましたが、住民の強い要望によって加越能開耕社が土地を寄付。住民の寄付を募って、この年、松鶴小学校が開校します。松鶴の名は、近くに鶴の繁殖地・馬追沼があったことからです。松鶴小学校もまた、一九七一年(昭和四六年)に学校統合によって松恵小学校となり閉校しました。

 
◆昭和初期の松鶴尋常小学校/昭和8年『三村名鑑録』より