戦時下のくらし

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戦時下のくらし-ことばのたたかい
 日中戦争太平洋戦争の時代、国は戦争をおこなうために国民総動員の体制を作り、政治・経済・文化のあらゆる分野で、戦争が優先する社会を作ろうとしました。その大きな柱となったのが、言論の統制と、経済の統制です。「銃後」という言葉が生まれ、「滅私奉公」という言葉で個人よりも全体が大切だとされました。食糧や日用品は配給となりますが、窮乏に耐えることが美徳とされ、「ぜいたくは敵だ」「ほしがりません勝つまでは」などのスローガンが登場しました。子どもたちは「小国民」とよばれ、国家に忠節をつくし、戦争を支える教育がおこなわれました。それはもちろん恵庭村も例外ではありません。

 
◆戦時下での防火訓練

◆戦時報国債権(恵庭市郷土資料館)
◆軍隊手帳(恵庭市郷土資料館)

◆凱旋記念盃(恵庭市郷土資料館)

パーマネントはやめましょう
これは一九三七年(昭和一二)の標語。女性が美しく装うことがぜいたくだという価値観が強制されました。当時の川柳に「主婦之友もう御化粧の秘訣なし」というのがありますが、今なら『ViVi』からファッション記事がなくなったようなものでしょうか。

 
生めよ殖やせよ国のため
一九三九年(昭和一四)には、兵士と労働力を確保する政策のもとに、こんなスローガンが生まれました。避妊は悪とされ、産児制限運動の活動家までも逮捕されました。しかし庶民はしたたか、こんな川柳も生まれました-。

正直な話子宝多すぎる
 
ほしがりません勝つまでは
戦争による物資の不足は、庶民の日常生活に深刻な影響をもたらします。政府は生活用品の供給を切符制による配給とし、一九四一年(昭和一六)には米穀配給通帳で米が配給制となります。それ以降、味噌・醤油・塩・衣料品などが次々と配給制となり、それもだんだん手に入れることすら難しくなりました。

衣料切符なんの姑手離さず-庶民はユーモアで抵抗するしかありませんでした。
 
◆配給された石鹸(恵庭市郷土資料館)
◆米穀通帳・衣料切符(恵庭市郷土資料館)

◆愛国婦人会たすき(恵庭市郷土資料館)
◆軍馬の飼料を献納する茂漁地区大日本婦人会

満州事変