|
解題・説明
|
取掛西貝塚は、船橋市飯山満町1丁目から米ケ崎町にまたがる、標高約25mの台地上に立地する縄文時代の遺跡で、面積は約76,000㎡(東京ドーム約1.6個分)である。発掘調査の結果、約1万年前(縄文時代早期前葉)と約6千年前(縄文時代前期前半)の、2つの時期の貝塚を伴う集落跡(ムラ)が見つかっている。
約1万年前には、グローバルな気候温暖化や縄文海進といった大きな環境変化に対応して、貝塚がはじめて形成され、定住的な新しい生活様式が確立した。約1万年前の貝塚は日本列島で最古段階の貝塚であり、全国的にみても10か所程度と非常に数が少ない。また、本貝塚では同時期の竪穴住居跡が58軒発見されており、ムラと貝塚の両方が残された早期前葉の貝塚として稀有な遺跡である。これらの竪穴住居は、台地南部を中心に東西約300mの範囲に分布しており、本貝塚は早期前葉の集落として関東最大規模である。さらに約6千年前の気候の最温暖期のムラと貝塚も残されており、環境の変動とそれに適応した日本列島の人類史を解明することができる重要な遺跡である。
船橋市を含む東京湾東岸部は、日本列島で約2,700か所ある縄文貝塚のうち、およそ30%の約760か所が集中する日本一の貝塚密集地帯として知られ、特別史跡加曾利貝かいづか塚などの日本を代表する大型貝塚が数多く形成されている。その中で本貝塚は最古段階の貝塚であり、この地域や日本列島で貝塚が形成されはじめた時期の環境や人々の生活・文化を知る上で欠かせない重要な遺跡であるとして、令和3年10 月に本市初の国史跡に指定された。
遺跡東部で見つかった早期前葉の竪穴住居跡には約70cmの厚さの貝層が堆積していた。これは、竪穴住居が使われなくなった後に、住居跡の窪みに縄文人が食料のゴミである貝殻や骨などを捨てたもので、貝層の中にはイノシシ・シカ・タヌキ・ノウサギなどの哺乳類のほか、キジ類・カモ類などの鳥類、コイ科・クロダイ・ボラ科・スズキ・イワシ類などの魚類の骨が豊富に残っていた。縄文人が食料とした魚介類のうち、貝類は99%以上が河口など淡水と海水が混じりあう汽水域に生息するヤマトシジミであるのに対して、魚類は淡水域から内湾沿岸部にかけて生息するものがみられ、より広い水域で漁がおこなわれたことが窺われる。
さらに、出土した炭化種実や土器に残された種実の痕跡(圧痕)を詳しく調べた結果、オニグルミなどの堅果類、ミズキなどの槳しょう果か 類(水分が多く果肉が柔らかい果実)、ダイズ属やアズキ亜属などのマメ類を利用していたことが判明した。また、貯蔵した木の実などを食害するコクゾウムシの圧痕も見つかり、食料が乏しい時期を見越して、あらかじめ木の実などを貯えていたと考えられ、定住性の高い生活であったことが窺われる。本貝塚では、縄文人が使っていた土器や石器のほか、針や刺突具など骨でつくった道具も出土している。このほか、貝殻を素材として作られた装飾品(ビーズなど)も見つかった。なかでもツノガイという貝で作られたビーズは2,000点以上あり、縄文時代の他の遺跡と比べても突出した量である。また、竪穴住居跡の貝層の下から、イノシシやシカの頭蓋骨を集めて火を焚いた跡がみつかっている。単に食料のゴミを捨てただけとは考えにくい出土状況であり、当時の人々の精神文化を考えるヒントとして大変重要である。
|