地震観測と午砲

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 一般地上観測のほかに重要なものとして地震の観測があるが、これは一たび起こった時の社会的影響は計りしれないものがある。
 文献によると、明治6年から地震の発生の回数が記録され、また明治14年からは簡単な地震計による観測の記録がなされていたということである。
 また、気象観測にしても地震観測にしても、当然正確な時刻を必要としたので、創業と同時に時刻の観測ということも重要な仕事となっていたようである。
 これを裏付けるものとして、前にも述べたように、明治5年7月23日の創業時には観測と同時に時辰儀検測も命ぜられており、明治7年1月から開拓使函館支庁の報時人詰所据付の時辰差を査定し、明治15年7月からは、毎日正午、報午旗で一般市民に正午を知らせていたということなどが文献に散見される。
 また、この報時については、その後もこの方法によってしばらく続き、明治31年には、旗による正午の時報が元町高区配水池構内の大砲によるいわゆる″ドン″に代り、昭和7年にNHK函館放送局の開局によって、ラジオによる時報が一般化されるまでの長い間、市民に親しまれて続いていたが、この午砲は測候所で掲げる正午の旗信号を遠望して鳴らしていたとされている。
 このほか、函館区以外の観測として、渡島・檜山などの各地の郡役所に委託し、委託観測所としてかなり早くから観測が始められており、明治15年には、すでに福山、江差、久遠、寿都、森、福島、江良、俄虫、熊石、釣懸(奥尻)、瀬棚、山越、臼尻、戸井にそれぞれ委託観測所が設置されていて、広い地域の気象状況を把握し、気象資料が集められていた。