狩猟と漁労

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 縄文文化の時代が狩猟と漁労による原始生産経済の段階であったことはいうまでもない。中国や西欧の新石器時代には自然採集経済から原始農耕や原始牧畜という生産段階に入っているが、日本では縄文時代の後半になってから農耕があったのでないかといわれてはいるが明らかでなく、牧畜を証明する遺跡もまだ見当らない。日本は大陸と違って海洋や河川に恵まれ、漁労に依存していたことが多かったのではないかと考えられる。これは遺跡の分布が河川流域や旧海岸線などにあり、貝塚も比較的多く、釣針や銛などの漁労具が骨角製であるため、貝塚や洞窟遺跡など保存条件のよい遺跡でよく発見され、埋蔵状態のよくない普通の遺跡では骨角製品は残らないが、生活面に魚の焼骨残片などが発見されることからもうかがえる。
 漁労と共に狩猟も重要な経済活動で、共同による狩猟行為がかなり盛んであった。これらの狩猟具は石製品の場合が多く、弓矢の発達による石鏃と呼ぶ矢の根の形態に時代や地域によって特色が現われる。また、石槍なども時代的特徴がある。貝塚とか骨塚と呼ばれる地点では、陸上動物や海上動物の遺存体が多量に堆積している。このなかには特定の動物が多かったり、石鏃などの石器が骨に刺さったままの状態で発見されることもある。
 縄文人の狩猟生活や漁労生活の変遷は、石器や骨角器などの道具やそれらの出土状況からうかがい知ることができる。石器や骨角器から狩猟と漁労を見る限り、狩猟より漁労の変遷が、道具や動物の遺存体から発展過程がよくわかる。渡辺誠の『縄文時代の漁業』によると、網漁業を主とする内湾性漁業と、釣漁業及び回転式離頭銛を主とする外洋性漁業があり、それぞれ発達の過程で3段階(3期)に分けることができるという。(回転式離頭銛とは、大形の魚、海獣、クジラなどに用いられ、銛頭と棒状の柄を皮ひもなどで結び付けて獲物に突き刺し、獲物が暴れて逃げる時、皮ひもにくくり付けられている銛頭が引張られて獲物の体内で回転し、柄が離れても突き刺された銛頭はひもから離れず、大きな獲物の場合は海上に浮いている柄が目標となって第2、第3の銛が打ち込まれる仕組になった銛のことである。)そのうち網漁業は第Ⅰ期の縄文時代の初めから中期初頭までは捕獲対象がはっきりしないが、第Ⅱ期の中期前半には東関東で内湾性漁業形態が確立し、クロダイ、スズキなどを集中的に捕獲し、漁場の占有関係も明確化されたという。釣漁も縄文後期にかけて関東、東海を経て九州にまで影響を与えるが、後期中葉になると骨製のヤスによる刺突漁業が盛行し、土器製塩業が創案されて第Ⅲ期を迎え、弥生時代中期になると網漁が外洋に伸びて大規模になる。外洋性漁業は第Ⅰ期の縄文中期前半まで回転式離頭銛の使用が行われているが、これは青森県以北にしか見られず、第Ⅱ期の縄文中期後半になって全国的に確立し、リアス式海岸を有する東北地方太平洋岸では釣漁も活発になり、捕獲対象もマダイ、カツオ、マグロと集中的になる。縄文後期末には回転式銛が改良されて燕(つばめ)形離頭銛が出現し、更に縄文晩期にかけて結合釣針も現われ、一層マグロ漁が活発化して第Ⅲ期を迎える。結合釣針というのは骨角製の釣針で、アゲの部分と釣糸を結び付ける頭と胴の部分を別々に作り、これを結合して用いるもので、大形の魚を釣るのに用いる。ここで重要なことは、縄文時代の初めから内湾漁業と外洋漁業の区別がなされ、縄文中期には両漁業が確立し、後期以降になると交換価値の高いマグロ漁が活発となり、製塩業もそれに伴って発達するという経過をたどったことである。
 狩猟についてみると、対象となった動物は、シカとイノシシが圧倒的に多く、貝塚からこれらの骨が発見される。また山地の洞窟ではツキノワグマ、カワウソ、アナグマ、テン、タヌキ等の骨が発見され、これらも狩猟の対象となっていたことがわかる。貝塚における時代別捕獲量をみると、シカが多量のときと、シカとイノシシがほぼ同量のときがあり、山地での狩猟捕獲対象との違いが現われている。海岸に近い貝塚ではクマなどに代り海獣が多い。遺跡によっては鹿角製骨角器及びその未成品が多数出土しているのに、肢(し)骨や顎(がつ)骨が極めてまれにしか発見されないということもある。鹿角は漁具などの材料として用いられる重要な交易品でもあったろうし、鹿皮は日常欠くことのできないものであったことが察せられる。狩りの方法は、弓矢と投げ槍が主なものであったが、家犬を伴うこともあった。江坂輝弥によると、家犬の使用は縄文前期からみられるが、この傾向は中部地方以東に多く、西日本では例が少ない。しかし、縄文早期中葉の愛媛県上黒岩岩陰の遺物包含層から人骨のわきに日本犬(柴犬型)が2頭埋葬されていた事実があり、狩犬の使用はかなり古くからあったと考えられている。東日本では貝塚や洞窟から数頭ずつの埋葬例が報告されている。日本における家畜としては犬が最も古く、北に行くほど多くなるのは、猟犬や番犬としてばかりでなく、ソリなどを引く動力としての役割を果たさせていたからであろうと思われる。
 縄文時代の東日本と西日本ではかなり文化の違いがある。一つには西日本に縄文時代の遺跡数が少ないことにもよるが、縄文後期あたりから、土掘り具と考えられる打製石器などが出土するので、生産形態に違いがあったのではないかといわれている。これは東日本が狩猟・漁労社会であったころ、西日本ではすでに陸耕がなされ、いも、ひえ、あわ等の栽培も行われて原始的農耕社会に入っていたことを示すものではないかとも考えられている。