狩猟と漁労

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 円筒土器時代の狩猟と漁労はどのようにして行われていたか。遺跡の分布が海岸から山間部にまで広がっているので、狩猟を主とした生活と、漁労に依存した生活があったと考えられる。規模を比較すれば海岸に近い丘陵地帯の遺跡の方は大きく、山間部の方は小規模である。動物を主食とした生活であったことは、貝塚から多量に発見される動物の骨と、それを解体料理するための皮剥ぎ、肉切り用の石器によってうかがえる。貝塚から出土する獣骨で最も多いのはエゾシカである。頭骨は後頭部が砕かれ、大腿骨や脛骨などは10センチメートル内外に割れている。野外炉の付近から出る焼骨の多くはシカの割れた骨片で、キツネ、タヌキ、アナグマ、テンなどの骨も出るが量的には少ない。シカの皮は衣服、靴などに用い、角や腓骨は釣針や銛の材料とした。大腿骨や脛骨が細かく割られているのは骨髄(ずい)をしゃぶって食べたためであろうが、ほかの動物にはこのような食べ方をすることはあまり例がない。エゾシカは大形で衣服や道具の材料をも多く得られるから、シカ狩りは集団で行われたであろう。柵囲いの中に追い込んで捕えたり、崖の上に追い上げて落して捕える方法などがあったと考えられる。遺跡規模が大きいのは、多くの家族集団が生活できたからで、戸数十戸の集団といえば現代ではごく小規模の部落であるが、自然物採集経済の段階であった当時にあっては大きな村であり、それだけ獲物が豊富であったからであろう。その反面、常に家族集団の必要とする食糧の確保が要求され、それを満たしていかねばならず、従って獲物のない時は骨の髄や海辺の岩礁にはい回っている1、2センチメートルばかりの小さなタマキビなどの貝を多量にあさらなければならなかった。
 海岸に近い丘陵ほど遺跡規模が大きいのは、海の資源と山野の資源の両方ともに手に入れることができたからである。貝塚から出土するクジラ、アザラシ、オットセイ、イルカなどの哺乳類、マグロ、マカジキ、サメ、ソイ、カレイなどの魚類、白鳥など大形の鳥類の骨によってもわかるように、海獣などが回遊し、平野部の不凍湖がある生活環境の最も良い条件のもとに集落が形成されていた。マグロやマカジキの骨が多いのは、漁法が改良され、外洋性漁業の発達がうかがわれる。すでに述べた回転式離頭銛も、初期の形態から改良されて効率のよい鹿角製離頭銛となり、獲物に命中すれは外れにくくなる。クジラなど海獣の捕獲には何隻もの丸木舟で集団の行動をしたが、ある時には単独でマグロやサメなどを追い求めた。陸の動物でシカが圧倒的に多いのは、前記したように石槍の発達と仕掛け穴などによって共同の狩猟が行われたからである。