函館空港第4地点遺跡の例を見ると、大きな石皿や砥石が150個以上も発見されている。集落の戸数を60戸と見て2倍以上の出土である。前述したように、集落構成は多い場合でせいぜい20戸の規模で、それが建て替えられたものと考えられるが、出土する石皿や砥石の数は推定戸数との割合に比しては多く、たとえ実際の戸数が推定戸数より多少多かったとしても、他の時代よりも石皿の使用が盛んであったことを示す。石皿の用途として次のことが考えられる。この時期の特色として土器に多量の植物繊維が混入されているが、胎土中の繊維は禾(か)本科植物のもので、それが綿のようにもみほごされている。粘土に混ぜる植物はあらかじめよく擦(す)って葉も茎も形がなくなるほど打ち叩(たた)き、それを粘土に混ぜて土器の形に仕上げる。土器片に付着している禾本科植物の葉や茎は5ミリメートル前後に砕かれ、まれに4センチメートルほどのものが残っていることもあるが、かなり擦りつぶされていることが分る。大形土器には多量の繊維を必要とするわけで、このような作業をするために石皿と石杵(きね)が必要であったのであろう。石杵は、初めは握りやすい自然石を用いていたが、後には大き目の角の丸い、おにぎりのような三角形の石で、両側面にくぼみを付けて握りやすくした北海道式石冠と言われる道具が用いられた。この石器は底が広く平らになっていて、擦りつぶす作業がしやすくなっている。縄文中期になると、両側面のくぼみが改良されて溝(みぞ)状になり、形が整えられる。石杵が定形化するころ、粉挽(ひ)き用の石棒が作られる。太さ10センチメートルほどの筒形の石器で枕(まくら)に似ており、人骨の傍らから発見されたところから石枕と呼ばれたこともある。これを転がしたりひき回して擦りつぶすわけであるが、石棒は短くて30センチメートル、長いものは70センチメートルもある。粉挽き棒が発達すると石皿も枠(わく)どりしたものができる。
調理用具で目につくものは石箆(へら)とか石小刀の類である。縦剥ぎや横剥ぎの石片の一部を加工しただけであった石器が、両側縁や片面をきれいに調整した石器となって現われる。縦形の石小刀といったつまみを付けた石器はこのころにも作られているが、刃部が幅広く、剥片の片面だけを再加工したものと、両面を加工して周縁に刃を付けた形態のものが多く、細長のものはなくなる。大きさは7ないし10センチメートルほどで、生肉を切り取ったり、皮を裁断したりしやすいようになっている。石箆は鴨(かも)のくちばし状のものと三味線の撥形のものがあり、基部が細く刃部が幅広く作られている。大きさは7ないし12センチメートルで、握りやすく柄を付けて動物の皮下脂肪をそぎ取ったり、骨を切断するのに用いた。剥片を利用した石器のうちで出土の比率が高い。