日吉遺跡などに住んでいたのはどのような人たちであったのであろうか、誰もが知りたいところである。当時の人物あるいは風俗、習慣を知る手がかりとなるのは、今のところ発掘品しかないが、これらは14C年代測定値によると今から3200年前を示している。日吉遺跡からは土偶と人物の顔を表現した土製品が出土している。土偶は完形品でなく体部や手足などが別々になって出土しているが、これらは副葬品として出土したり、不特定の場所から発見されることがある。完形品が少ないのは、ある目的で土偶を造ってから意識的に壊したものであり、病人やけが人が出た時、祈願をこめて土偶を身代りにすることもあったであろう。体部だけの土偶は、裸体同様の女性像で下半身に下着を着用している。手足の部分品は、膝や足首に衣服の文様があって、毛皮などの服を着用していたことがわかる。人物の顔を表現した土製品は、土器の把手(とって)飾りの一部なのか、首から下部が剥脱して原形は不明であるが、頭がとがっていて頬(ほお)がふっくらとした童顔で、表裏ともその表情や表現が同じ顔をしている。この三角おむすびのような顔を注意して見ると、アノラックのフードをかぶったように縁取りがしてあって刻み目の文様がある。このころは海退期に入っているので気温も低く、冬は北の民族のように毛皮のフード付きアノラックのようなものを着ていたのかも知れない。(246ページ図参照)
この時期の土偶から見た服装は、和服のように前合わせにするが、袖(そで)は手首まであって裾(すそ)丈は膝下ぐらいまでであり、手首と膝下は紐で結んでいる。日吉遺跡より時期が下がる青森県の大森勝山遺跡の土偶は、上衣が毛皮で毛の方を内側にして胸から裾までの間をボタン状の留め具で留めたり、下着は三角形で、ふんどし様のものを着用したものもある。このような衣服を着けた民族は、土偶だけからは判断できないが、冬期間の衣服であろうと見られるから北方系の民族であったであろう。カムチャツカなど北方原住民の衣服は夏冬共に皮製の服で、夏はなめし皮の薄手のものでフード付きのガウンのような服にブーツを履くが、冬物は毛皮で、毛の方を外側にした服を着ている。土偶の何例かは上着を着ず、下着だけのものがあるが、夏期には上着がなくとも生活ができたのであろうか。民族の風俗・習慣は壁画あるいは実物の発見がない限り、推測の域を出ない。