ことに彼の開いた択捉場所は、もとより魚族に富み、たちまち多額の産出をみせ、しかも鱒の豊富なことは全道に冠絶したので、盛んにこれを漁し、搾粕として諸国に移出した。享和3年の同島の産物を挙げれば、鱒搾粕40万貫(鱒480万尾を要する)、鱒油2500挺、その他魚搾柏2万貫、同油150挺、塩鱒12万尾、塩赤鱒8000尾、塩鮭30万尾に達し、同島の開発は東蝦夷地の声価を一層増大させた。このため松前藩のころの東蝦夷地の収納高は、これまでは西蝦夷地のおよそ3分の1に過ぎなかったが、幕府の直捌となり、前述のような発達を示し、その収納はほぼ西蝦夷地に匹敵する盛況を呈したと伝えている。
かくて嘉兵衛は文化3(1806)年には、大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ、同7年特に択捉場所の請負を命じられて、家業はいよいよ繁栄し、本道屈指の豪商となった。