享和元年 | 586戸 | 2,595人 |
同 2年 | 756戸 | 3,084人 |
とあって、享和2(1802)年には750余戸と、わずか3年間に350戸の増加を示している。しかも文化3(1806)年10月、弁天町河岸から出火して、約300戸を頼焼しているにもかかわらず、その後の戸口は次に示す通り、
文化4年 | 778戸 | 3,122人(男1,528人・女1,594人) |
同 8年 | 778戸 | 3,304人(男1,629人・女1,675人) |
同 9年 | 804戸 | 3,392人(男1,686人・女1,706人) |
と、依然年々増加の趨勢をたどり、これに寄留者を合算すれば、文化9年の文書によれは戸数97、80戸とみられるように、もはや1,000戸に達せんとする情勢にあった。