築城

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 しかしながら津軽海峡付近に出没する外国船が急激に多くなったので、幕府は松前藩の要害を固める必要を痛感するに至り、ついに嘉永2年7月10日、特旨をもって松前崇広に新たに築城を命じたのである。福山城は古来城と私称していたが、正式に幕府に対し陣屋と称し、実際にはその規模も小さく構造も貧弱であった。崇広は幕命を奉じ、翌3年高崎藩の兵学者市川一学を招いて、その設計を担任させたが、一学は福山が城地として不適当であることを指摘し、箱館近傍に移すべきことを主張したが入れられず、藩では幕府の裁決を仰いで旧地福山に築城することになったのである。