これを過去の実績に徴すれば、前直轄時代すなわち、寛政11(1799)年より文政4(1821)年までの23年間における箱館沖ノ口収納額を見れば、文化6(1809)年の3,072両永185文7分を最低にし、最高は同8年の4,300両3分永99文6分とあって、全平均額では3,682両余であった。これが松前藩復領後文政5年から同9年までの5か年間の平均が4,554両1分永152文となり(近藤武美『文政癸未晩冬仲八ヨリ見聞記』)、更に沖ノ口諸役の増額などがあって、天保6(1835)年には約8,000両に達し(『湯浅家文書』)、同10年では7,423両余になっていた。(『箱館町戸口他』)これに対し再直轄5年後の万延元(1860)年には、16,602両余(文久元年『諸書付』沖ノ口掛)と、実に約2倍強に増大している。もちろん、万延元年の数字は、箱館の外国貿易開始直後のものだけに、開港に伴う全体的な商品流通の増加という動向に大きく左右されているが、それでも2倍強に達している大きな要因は、幕府の強制政策にあったことは見のがすことができない。