水稲

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 こうした官の奨励もあって、安政3年は、気候も順調で豊作をおさめ、同年から3か年間、仮に定めた田租玄米71石8斗1升6合を上納することができた。同4年および5年は収穫がやや悪く、田租の幾分を免除しなけれはならなかった。以後また相応の収穫があり、依然として検地して年貢を決めるまでには至らなかったが、同6年から7か年間更に田租5石6斗9升7合を増加して取立てることになり、箱館地方の水田経営はやや確実なものとなった。この成績を得たのは当時の官の指導奨励のたまものであったが、また永年の経験から北地に適した稲種が生まれたからであり、その品種は白髯(しらひげ)で、あるいは津軽から移入した品種ともいい、あるいは秋田地方からもたらされたともいわれ、その来歴はわからないが、安政ごろから一般に耕作されるようになったことは疑いない。庵原菡斎が試作した大野赤稲などは、おそらく大野村で固定された早生種であったと思われる。その後は、年により若干の豊凶はあったが、しかし道南地方における米作は、寒冷地適作の品種の確保により、ある程度安定したとみられる。