安政元(1854)年3月3日、神奈川(横浜)でペリーと幕府との間で日米和親条約が調印され、これにより日本は、伊豆の下田港と松前地の箱館港の両港においてアメリカ船に対し薪水・食料・石炭等の欠乏品を供給し、かつ日本に漂着したアメリカの漂流民を扶助し、両港に護送してアメリカ船に引渡すこととなった。開港の時期は、下田港が調印日、箱館港が翌年3月とされた。前年ペリー艦隊が浦賀に来航し、幕府に開国を求めて以来8か月、安政元年1月ペリーが再び浦賀に来航し、神奈川(横浜)で条約締結のための第1回の日米交渉が開始されて以来僅かに23日後のことであった。寛永16(1639)年以来約215年間、幕府の祖法として維持されてきた鎖国体制は、ペリーの来航を大きな契機として僅か8か月という短期間のうちに崩壊したわけである。
とはいえ、この鎖国から開国への途は、ひとりアメリカを代表したペリーの対日交渉のみでつくられたわけではない。ごく大雑把にいえば、イギリス、アメリカ、オランダ、ロシア等のアジアを舞台とした各々の利権をめぐる確執と、日本国内における18世紀後半以降、とりわけ天保期以降の幕藩体制それ自体の動揺という内的矛盾が複雑にからみあうなかで形成されたものであった。それだけに、箱館開港を含めたこの期の歴史的意味を正確に理解するためには、まずもって右の内外の動向のからみあいや、その特質を把握しつつ、その中での日米交渉の経過を詳細におさえなければならないが、この点は他の研究書を参考にしていただくことにして、ここでは、主として箱館が開港場に設定されるに至った経緯について若干の検討を加えておきたいと思う。