箱館から函館へ

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 ところで開拓使出張所の看板を掲げた時、「はこだて」の文字をそれまで主に用いられてきた「箱館」の文字から「函館」と改めたといわれている。取りあえず函館を拠点に活動を開始した開拓使が、気持ちも新たに北海道開拓に取り組むという意図を込めたものでもあろうか。『函館区史』では『開拓使事業報告』(第1編沿革)に「(明治)二年本使出張所ヲ置キ箱館ヲ函館ト改ム」とあるのを受けて「(九月)三十日開拓使出張所を函館に置く、箱館の字を函館に改めたるは此時なり」と断定した記載になっている。
 しかし、開拓使の事務章程等の整理がかなり進んだ明治9年4月に、函館支庁から東京出張所へ出された伺書の中に「函館ノ文字本使中発行ノ公文上ニハ函ノ字ノミ相用、既ニ印章等モ函ノ方ニテ彫鐫相成居候処、他官省ヨリノ往復書ハ勿論太政官日誌等印刷ノ書中別帋抄出ノ通、或ハ函ヲ以テシ或ハ箱ヲ用ヒ一定ナラス、右ハ別段何レヲ用ユル旨御達無之共無論函ヲ以正ト致候義ト心得可然哉」(「開公」4858)とあるように、この時期でも混用されており、字を改める旨の布達は確認できなかったようである。もっとも、保存されている箱館県の文書綴りでは「箱館」がほとんどで、開拓使の文書綴りになると「函館」とはっきり色分け出来る文書綴りになってはいるが。
 この伺書に対する東京出張所の回答(5月8日付)は「御来意ノ通函ノ字ニ一定致候方可然候」とあり、追認という形ではあるがこのとき初めて「函館」を正字として統一したわけで、函館支庁は5月31日にこのことを札幌本庁に申入れという形で伝えている。
 なお、『函館沿革史』などは蝦夷地を北海道と改称する太政官布告が出た2年8月15日に箱館を函館と改めたとしているが、先の史料にも述べられている通り明治9年に至っても「太政官日誌」が「箱」と「函」を混用しているようでは、この説は論外であろう。