牢屋から囚獄へ

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 行政警察の予防の力が及ばず法律に背く者が出て、司法警察によって探索逮捕した時、この犯罪者を所管するのが囚獄事務で、この犯罪者が裁判所での審理を経て懲役刑の判決を受けると受刑者となり、この受刑者を所管するのが懲役事務であり、彼らを収監するところが監獄である。函館には旧幕府前直轄時代から南部藩陣屋下(現宝来町)に牢屋が置かれており、開拓使にそのまま引継がれていた。また箱館府からの引継時に庁内門長屋へは徒刑(罪)場が置かれた。明治4年9月12日に山上遊郭が火事で焼け、この牢屋の付近(4年10月17日蓬莱町と新称)へ遊郭を移転することが決定した。このため牢屋と徒刑(罪)場の移転を考えることになった。10月15日、取りあえずこれまでの牢屋は当分そのままとし、尻沢辺道に新しい牢屋を作り、徒刑(罪)場は東川町121番地(現函館消防署付近)の地を予定することが決められた(杉浦誠「日記」)。ところが蓬莱遊郭の建築が進むにつれ、遊郭近接の牢屋は不体裁ということになって、旧幕以来の牢屋の建物は先の徒刑(罪)場予定地に移築されることになった(「開公」5488)。『開拓使事業報告』第2編の家屋表によると、牢屋、徒刑(罪)場とも5年に出来ている。牢屋は獄舎と表記され、本牢屋、揚屋、吟味所、焚出所、門番所、物置、官邸等が作られたとあり、所在地は春日町となっている。しかしその後の諸表では、相生町246番地(現常住寺付近)となっている。これは明治5、6年に尻沢辺町、大工町から春日町、相生町等が分離し新町となったことを反映したものであろう。東川町の徒刑(罪)場には、罪人溜、細工所、掛詰所が作られ、「幕府ニテ築建本牢を、模様替後引建直シ」との注が付けられ、さらに6年には女罪人溜も作られている。
 その後徒刑場は、6年4月11日に従前の徒場を懲役場と称へ換える旨の太政官達(2月25日)を受けて懲役場と改称され、担当掛は懲役掛となって刑法課所管となり、函館裁判所設置に伴い刑法課が廃止されると、7年7月牢屋と懲役場は民事課警邏係の所管に移された。この時牢屋は囚獄、牢屋番は囚獄係と改称されたようである。『函館区史』は『開拓使事業報告』により、囚獄、囚獄係への改称を6年7月としているが、函館裁判所への事務引継関係書類(「開公」5793)中の函館刑法課職員名簿(7年3月調)中には、刑法課書記、白洲番、訴所係、捕亡係、懲役係と並んで牢屋係、牢屋番の名簿がある。ただ、この書類では囚獄と徒罪場が並んでいたり、監獄と懲役場が並んでいたりで、必ずしも一定してはいない。民事課警邏係の中に囚獄係と懲役係が置かれることとなったため、その後の職員録では警邏係中で「囚獄専務」、「懲役専務」となっている(明治10年「函館庁員分課誌」)。