東京横浜間の電信開通を目の当たりにした開拓使は、明治3年閏4月に北海道の電信架設に関して費用概算等を工部省へ問い合わせた。工部省は翌年7月必要経費ついて回答はよこしたが、北海道まで手が廻る状況ではなかった。このため開拓使は翌5年6月20日札幌新道の開削に合わせて、札幌まで開拓使経費で電信架設を行うことを稟請して許可(28日)を得た。この事務は新道建築掛が担当、翌7月工部省係官の指導のもと測量を開始し、「測量ノ柱木道筋ヘ相立ル筈ニ候条、抜取候義ハ勿論牛馬繋候義決テ相成ラス」(『布類』)との布達も出され、架設工事は進められた。その後6年5月、電信架設工事事務は新道建築掛の手を離れ、札幌地区は札幌本庁、函館地区は函館支庁が担当することになり、函館では大町15番地に電信局(建坪31坪)が設けられた(明治9年「官庁倉庫其他官舎絵図面」道文蔵)。
この間、4年には東京青森間、5年8月には青森函館間の海底線布設が決定していたが、日本の幹線さえ前述の状態で、両工事の進捗状況は遅々としていた。黒田次官は6年5月18日、正院へ両工事の進捗を要請する伺書を提出した(明治6年「稟裁録」)。これに対して正院は6月5日に「伺ノ趣諸般釐正中ニ付難聞届事」との通知をしたが、ようやく工事は進捗することとなり、7年1月、海底線布設工事が始まり、北海道の電信線建設及器械等施行方法は電信寮の指揮のもとで行い、費用は開拓使が負担することとなり、9月には札幌小樽間の架設工事が竣工、通信試験も行われた。この月渡島の福島と青森の今別間の海底線工事も竣工、12月には函館小樽間も竣工し官報の通信が行われた(『開事』、『函館の電報電話史』)。
翌8年3月20日には、函館、福山、森、長万部(8年10月廃止)、室蘭、札幌、小樽の7電信局(10年3月各電信分局と改称)が開局した。明治10年の函館支庁管下の各分局の主任は次の通りである(明治10年「函館庁員分課誌」)。
函館電信分局(11等出仕大久保幸孝)、札幌電信分局(11等出仕高林久明)、小樽電信分局(15等出仕黒野郁三郎)、室蘭電信分局(15等出仕手島永貞)、福山電信分局(少主典青木知則)、森電信分局(13等出仕松井静一)
その後、七重勧業試験場に七重分局(12年1月)、寿都、岩内、茅沼にも各分局(14年7月)を設置している。