肩書調査

411 ~ 412 / 1505ページ
 9月10日の演説会の後、函館支庁の肩書調査は一段と厳しさを増していた。再三にわたって理由書の提出を求められた山本忠礼らは、9月19日井口、山本、林、杉野、工藤の5人が区役所に出頭し、請願が却下されてしまった現在、今更区民総代の理由説明など不要ではないかと、理由書の提出を拒否し、逆に理由書が必要な理由の説明を要求した(「桜庭為四郎文書」)。
 このためもあってか調査主体が支庁記録課から警察署に変更され、この日請願者達は警察署から呼出されて、区民総代に選任された経緯の説明を求められた。21日には請願者に区民総代を委任した協議人、組合頭が警察署へ呼出され取調べを受けた。このため市中人心の動揺を心配した区長心得桜庭為四郎は、9月24日嘆願書を提出、「総代人ト委託シ、又総代人トナリタルモ互ニ差閊ナキモノト信ジ決定セシモノニ之アリ、下官ニ於テモ差閊ナキモノト認定、副申仕候儀ニ之アリ候間、肩書ニ於テ成規ニ違背スル処有之候ハヾ、人民相互ノ失錯ハ必竟小官ノ不行届ニ帰候義ニ付、寛典御沙汰ヲ以テ依托シ依托ヲ受タル人民ハ不問ニ置セラレ、小官一名ヲ御処置相成候様仕度伏願仕候」(同前)と、彼1人の処分という形で穏便な問題解決を願い出た。しかし、支庁の意向を変更することはできなかった。
 また、杉浦嘉七、泉藤兵衛、田中正右衛門、常野正義ら市内の有力者も仲介に奔走し、「向後斯様の不適当なる事は致す間敷」との誓約書を提出することで区民総代の肩書問題を不問とするというところまでこぎつけたが、山本忠礼らは自分達の行動を、不穏当ならまだしも不適当とすることはできないと主張したためご破算となった。
 この結果、市内の商業者は、自由民権的な動きで住民無視の行政には飽くまでも抵抗しようとする人々と、商業活動に専念して協調精神で対応しようとする人々に分かれて行くこととなった。
 こうした函館の有力市民らを巻き込んだ函館市中の動きが、「函館官民葛藤」という見出しで「朝野新聞」に8月25日から10月25日まで6回(各回2~7日連載)にわたって掲載された。内容は、函館市民がこの件で警察の取調べを受け市中が騒然としたときの様子、対応に苦慮する函館支庁内部や函館市民と黒田長官との間で苦悩する時任為基大書記官などが克明に綴られ、さらに関係の諸願書等がほとんど網羅されており、最後に「以上の報道は記者其の実否を知らざれど通信のままに記す」と筆を置いてはいるが、かなりの真実を伝えた報道であったと思われる。また、この連載の中で、当時の「函館新聞」社主伊藤鋳之助が、開拓使側に付いた人物として登場するのは、「函館新聞」のこの事件を報道する姿勢が次第に精彩を欠くように思えるのと何らかの関連があるのかもしれない。