北海自由党結党後の活動

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 北海自由党がどのような活動を行ったかについては、ほとんど確認できなかったが、山本忠礼を中心に「北門新聞」という新聞の発行を計画していたことは記録されている。「北門新聞」発行の主意は「自由の真理を拡張し社会の改良を計る」ことで、本社を函館に、支社を福山、江差、小樽、札幌、根室に設け、資本金2万円(1株5円)を公募して新聞を発行するという計画であった(16年9月28日「函新」)。この内容はそのまま「自由新聞」(明治15年6月創刊の自由党日刊機関紙)にも掲載されている(16年10月5日「自由新聞」)。
 ところが、先に許可申請されていた北海自由党の結党が認可された旨を報告する「報告」が掲載された10月12日の「函館新聞」紙上に、その「報告」とともに、北海自由党の「広告」が2本の載り、函館の自由党の中心人物であった山本忠礼は党を除名されてしまった。
 
         報告
  曩キニ其筋ヘ御届罷在候北海自由党ノ儀、昨十一日愈御認可相成タルニ付、爾来末広町六十六番地開静館内ニ本部ヲ置キ、本党一般ノ事務ヲ取扱候間、此段党員諸君ヘ報告ス
            十月十二日           北海自由党創立委員
  ただし、11月には、北海自由党事務所を西浜町20番地へ移転している(16年11月10日「函新」)。
            広告
  一 此頃北門社創立発起人惣代山本忠礼ト云フ名儀ヲ以新聞創立規則書ヲ摺リ立テ、開静館ニ仮事務所ヲ置クトカ或ハ委員ヲ設ケアル云々ノ項ヲ掲ゲ、頻リニ株金募集ノ由、然レドモ当館ニ於テハ毫モ是等ニ関係セザルノミナラズ、委員ノ設ケ等一切之レナキニ付、為念此段江湖ノ諸彦ニ御報道致置候也
            十月十二日      当区末広町六十六番地    開静館
             広告
                        山本忠礼
  右ハ北海自由党創立委員ノ所、去月二十八日俄然脳病ノ由ヲ以解任セラレタリ、爾来本党ニ毫モ関係ヲ有セザルモノニ付、予メ党員及江湖ノ有志諸君ニ告グ
             十月十二日         北海自由党本部
 
 何故除名になったかは不明であるが、函館県警察が内務省に報告した「自由党員和田彦二郎函館下における動向探知書」(明治16年「官省往復」道文蔵)によると、札幌遊説から戻った和田と会った(10月14日)山本は、「近々出京する予定であり、東京では改進党へ加盟するつもりと発言、自由党創立委員等と和解するような言葉は発しなかった」とあるので、山本忠礼と他の自由党創立委員との間には、修復不能な溝が出来ていたものと思われる。なお山本忠礼は、「拙者儀今回俄然帰省可致事件出来、高砂丸ヘ乗込ミ出京致候処、火急ノ場合諸君ヘ御挨拶ノ暇ヲ得ズ、旁乍失敬新聞紙上ヲ以テ茲ニ多罪ヲ謝ス」(12月18日「函新」)との一文を残し、12月16日朝6時出帆の高砂丸で函館を離れ、ふたたび函館に戻ることはなかった。
 また、北海自由党の活動として確認できる事項は、11月30日「函館新聞」に「北海自由党臨時会報告」を載せたことだけである。
 
          北海自由党臨時会報告
   本党役員選挙其他緊要ノ義有之、豊川町武蔵野向笹川儀一方ニ於テ来ル十二月一日午後一時開会候条、此段党員諸君ニ告グ
       第十一月            北海自由党創立委員
 
 この臨時会のその後について、「函館新聞」はまったく何も載せていない。しかし、12月10日の及川弥三郎、小橋栄太郎両名の「生等北海自由党ヲ脱セリ、此段辱知諸君ニ告グ」という北海自由党脱党広告以後、脱党者の氏名が頻繁に載せられ、北海自由党活動の痕跡は新聞紙上から消えてしまうのである。「函館新聞」で確認できた脱党者を表にすると表2-60の通りである。先の函館県警察報告にある通り、函館の自由党員は鳴りを潜めてしまったのかも知れない。
 
表2-60 北海自由党脱党者名簿

氏名
「函新」記載月日
及川弥三郎
小橋栄太郎
金子利吉
新谷芳五郎
蝦名吉右衛門
朝山平祐
田中和太郎
野田石太郎
佐藤字吉
仲栄二郎
野沢多吉
石川揆一
橋本彦三郎
塙菊治
柿本作之助
高田吉蔵
堀川泰宗
平川善五郎
平松貞三郎
16.12.10
 同
17.1.8
 同
 同
 同 死亡の為
 同
 同
 同
 同
 同
 同
 同
 同
 同
 同
17.11.1
 同
 同