海面埋立にみる函館区の政策

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 開拓使時代から引き続いた函館港改良工事が、本格的実施段階に入るのは先の亀田川転注工事が竣工してから10年後にあたり、その間に工事主体は函館区に変わった。つまり、浚渫並防砂堤築設工事と防波堤の役割を担う旧弁天砲台地先の海面埋立について、函館区が実施主体となったのである。この案件は明治28年4月の臨時区会において可決され、当初は国庫補助金については30万円を予定していた。しかし、その金額が受け入れられず、10万円の不足を区債の増加で埋めることが、明治29年4月の臨時区会で決まり、翌月には改修工事起工の認可を得ている(『函館港改良工事報文』)。これらの工事に関する予算は表4-23のとおりである。

旧弁天砲台地先の埋立

 この改修工事のうちの弁天砲台地先埋立は、区が一括して売却する予定であったが、入札者がいないので分割して売却しようと公告中のところ、柳田藤吉が購入を願い出たため、明治33年10月の区会の決議により競争入札を取り消し、随意売却とした。これにより市街宅地2万5233坪余は1坪平均15円の割合で柳田藤吉へ売却されたのである(明治27~36年「決議書綴」)。
 次にこの頃の函館区は都市整備に積極的であり、明治27年3月の臨時区会の決議に基き調査員を選任し、新たな埋立についての可否を調査させている。これを受けて調査委員は、当区の商業の発達にともなう倉庫不足を第1にあげ、若松町海面2万7148坪の埋立を提起し、同29年の区会に工事費もそえて提出した。このような函館区の事業展開には、「函館区ノ基本財産ヲ増加シ独立法人ノ基礎ヲ堅固ナラシムル」(明治29年「区会書類」)という考え方が基本にあった。そして明治30年5月臨時区会の決議により、若松町海面埋立工事が起工し、同33年4月に竣工した(明治33年「区会会議録綴」)。これらの工事に関する予算は表4-24のとおりである。
 
表4-23 函館港改良工事費
収入の部
公借金
国庫補助金
共有金
雑収入
合計
円
450,000.000
200,000.000
884.187
25,003.559
675,887.746
支出の部
浚渫並防砂堤築設工事
工事監督費
旧砲台先近方海面埋立
官有地払受代
公借金募集広告料
繰替借入金利子
合計
 
148,117.706
29,043.135
473,930.737
14,028.180
2,069.120
1,903.662
669,092.540
収支
6,795.206

『函館市史』統計史料編より作成

 
表4-24 若松町埋立工事費
収入の部
共有金
土地売却代
水道増設費残金
雑収入
合計
円
5,000.000
68,803.795
11,973.384
5,519.960
91,297.139
支出の部
石垣費
亀腹費
土工費
下水費
道路費
測量費
監督費
雑費
借入金利子
合計
 
22,454.716
4,122.245
48,241.454
3,254.161
326.338
41.189
5,113.274
542.659
7,201.103
91,297.139
収支
0

『函館市史』統計史料編より作成

 
 しかしながらこの若松町海面埋立地の処分については「若松町地先海面埋立地ハ、本年第一回区会ニオイテ其処分方法ヲ決議セラレ、又第三回区会ニ於テ土地売買契約書案ヲ決議セラレシガ、該地ハ海陸連絡ノ要地点ニシテ、北海道鉄道株式会社ノ停車場用地ニ最モ必要ナルモノニ付、別紙契約書案ニ基キ随意契約ヲ以テ、同会社ニ売却セントス」(明治36年「決議書綴」)と決まり原価にて契約されることとなり当初の目的を達することはできなかった。この契約により市街宅地2万3662坪余が10万2245円余の代金によって売買されることになった。
 この若松町の埋立地の処分をめぐって、当時の新聞は何回かにわたってかなりの紙面を費やしている。つまり区の選択が将来の交通体系を優先し、停車場の位置を変更することにあったのは言うまでもない。これに対し、区の財政困難の際に原価にて譲り渡すことは不当であるし、区会が公売を決議し、その期日まで確定したにもかかわらず、公売を延期し会社との交渉をすすめていたのは不法行為にあたると、区の当局者を批判している点も掲載している。そして同紙の中で新聞社側の時論としては「既に移転に依りて区民の蒙るべき直接間接の利益甚だ莫大なるものあるを知らば、目前に於ける十余万円の如きは滄海の滴水殆んと憂ふるに足らざるにあらずや」(明治36年5月23日「函館公論」)と、区民の将来の利益は目先の利益を越えるものとの判断を示している。
 さて、旧弁天砲台地先の埋立も竣工し、若松町海面埋立の工事も終りに近づいた明治33年1月の区会において、海岸町埋立が決議された。この埋立の計画は32万1770円余の予算により、明治33年6月1日より同36年5月31日の工事期間を設け、その工事費は旧弁天砲台地先の埋立の売却代金を充てることにした。この埋立の目的は「年々区公共事業の経費を支弁する財源に枯渇し、当区自治の本体を失ふの苦境に陥れり、今当地に財源を得て前途自治の基礎を鞏固ならしむるの道を講ぜざるべからず、依て此際海岸内海面に於て(中略)本区の財源を求めん」と建議している(明治27~36年「決議書綴」)。その後、工事費が若松町埋立地の売却代金に変更され、結果的には明治34年12月の区会において、本埋立は取り消されることになった。その理由として「目下出願中ノ処、右ノ箇所ハ北海道鉄道株式会社ニ於テ海陸連絡上必要ニ付、当区ノ出願ヲ取消サレ度旨願出ニ依リ」とあるように、交通の要所としての利用の願いを優先し区は埋立を取りやめることになった。
 以上のように明治時代の行政による埋立は図4-15のようにまとめることができる。これらの埋立をいくつかの視点によって分けてみると、市街地整備の意味が抽出できるのではないかと考えたのである。まず、埋立を内陸部と海面部とに分けることができ、前者は開拓使、北海道庁によるもので後者については、函館区が主体となって行われていた。また両者の埋立は宅地と倉庫地の供給という機能面の違いにも注目できる。しかし、両者に共通する部分があることにも留意する必要がある。それは、港の改良工事の一環として位置づけることができるためである。また、若松町の埋立のように函館区の政策には埋立を資産財として活用する視点が見うけられる。しかし、函館区が最終的に選択したのは資産財としての利益よりも新たな都市機能を当地に具備することであった。つまり港の改良工事と鉄道駅移転によって、交通の要所としての「場」を確保することに政策の転換を知ることができる。また、両事業が関連深いことを示唆する点として、北海道鉄道株式会社が若松町埋立地に移転するために要求した条件の1番目に「函館区は砲台埋立地地先一二〇〇坪の防波堤を五ヶ年以内に築堤する事」(明治36年5月27日「函館公論」)をあげているのである。つまり、交通の要所としての都市機能の整備も港湾都市としての整備があってはじめて機能することを物語っていよう。

図4-15 明治期の行政による埋立事業